こんじき かぜ
 −金色の疾風−




宗治狼、生霊名瞬迅九尾宗助は、暑さの残る太陽の日差しで目を覚ました。

一瞬、野原の風景が目に浮かび、次の瞬間にはここ数ヶ月の見慣れた光景、整理された居間の姿が映し出された。

気持ちのいい寝起きではあったがどこか朦朧とした意識の中で、宗治狼はなぜかその光景に充足と安心を覚えた。

それは50年来の気分であったのを、しかし宗治狼は覚えてはいなかった。

朝、この龍哉の家で最も早く起きるのは宗治狼である。それは変わらなかった。二人目の居候が入っても。

宗治狼はとりあえず、居候させてもらっている相手である、朝にめっぽう弱い青年、深月龍哉を起こしに行くことにした。
部屋に入ると、高校生ではまずないほど閑散とした室内に、彫刻品のようにギターが飾られていて、他にあるのはこれまた飾り気のない机と、壁に組み込まれたクローゼット、そして部屋の主が堕ちているベッドだけであった。

それというのも、龍哉があまりものを買わない上、一般の高校生がそうであるように、本を集めたり、ゲームを買ったり、服を買い込んだりということを、あまりしないためであるというのも要因の一つではあるが、それ以上に一高校生たる龍哉には部屋が大きすぎ、さらに一人暮らしの癖に部屋が多すぎるということが最大の原因である。

よって、あと二部屋ある個室の一つは本置き場となっており、もう一つが物置となっている。

だから僕らが住んでも平気なんだけど、と宗治狼は思う。

一体この豪勢な部屋の維持費はどこから出ているのだろう。

宗治狼の下にうずめられている龍哉の顔は返事をしなかった。

最近は我慢比べになりつつあるこの朝の風景。宗治狼の体をして龍哉の呼吸器をふさいで無理矢理起こす。

相手が睡眠時無呼吸症候群だったらそのままぽっくりと逝ってしまいそうな起こし方だが、龍哉はともかく、宗治狼はそれを変えるつもりはなかった。

数分後。

荒い息遣いと共に顔面蒼白の龍哉が宗治狼を鬼のような病人の形相で睨んでいるのは壮観ではあった。



最近の朝食担当は龍哉が毎日というわけにはいかなくなってきている。

もう一人の同居人が宗治狼が龍哉を起こそうとしているときに起床し、そして調理を始めるためだ。

龍哉としては調理の手間がなくなってうれしい反面、以前から指摘されている料理のレパートリー不足の改善ができなくなるために不利益もあるのだが。

しかし、宗治狼としては回を追うごとに料理の形を成していくもの、ひるがえせば当初はまったく食べ物には見えないものを毎朝食べるという野球の練習的魅力よりも、安全かつ美味いものを食べられるほうがいいのは確かだ。

実際、諷と龍哉の料理の腕は段でいえば1,2段は違うが、しかしまともなものさえ作れば龍哉だって美味いものを作れるのである。

そんなことを考えていると、朝から着物で味噌汁の味見が似合う諷が、宗治狼のほうを向いた。

「おはよう」

宗治狼は人間の、子供の姿になりながらそう言う。

「おはようございます、宗助様」

諷はキッチンの火を止めて(という表現は正しくないかもしれない。最近流行りのIHクッキングヒーターという火を使わないコンロだからだ)宗治狼のほうへ歩み寄る。

宗治狼は急に、そんな諷をからかいたくなった。いわゆる可愛さあまって憎さ千倍という奴だ。まったく違うが。

「諷、そんな姿じゃ料理しづらいんじゃないか?」

「え?いえ、なれているから大丈夫ですけれど」

「それにしたって和服はいろいろと大変だろう」

首を傾げる諷に、宗治狼は笑みを堪えて続ける。

「それに、僕は龍哉と従兄弟だか弟だかでとおっているけど」

宗治狼は自分の姿と諷の姿を見比べる。諷もそれに習った。

「お前のそれは、母親にしか見えないぞ。しかも龍哉には今母親はいないことになっているらしいし」

「……どう、すればいいんでしょう」

困惑する諷に、心の中だけで笑いをかみ殺して言い放つ宗治狼。

「さぁ?自分で考えられるだろ?たとえば僕に習うとか」

押し殺せない笑みが微妙に表情に浮かび上がった瞬間、諷の形のよい眉がゆがんだ。気付かれたのだ。

大仰にため息をつく諷。50年で結構感情表現が大げさになったのかもしれない、と宗治狼は勝手に思考した。

「…その姿もさることながら、しゃべり方もまったく子供ですし。あなたは私をいつもからかうのですね」

「いや、まぁその、な」

「…400年前からきちんとした理由を一度も聞けていませんね。今日こそ聞かせてもらいましょうか?」

攻守逆転。こうなった諷相手に、宗治狼はたいてい鼬丸を身代わりにしていた。

だが今鼬丸は鈴音家でお世話になっているのでここにはいないし、頼みの綱の龍哉は今洗面所で朝の身だしなみ中だ。

表情はあくまで変えなかった宗治狼だが、諷には内面が見えてしまったらしく、クスリと笑われる。

「…冗談ですよ。このやり取りも50年ぶりでしたから」

心の中で息をつく宗治狼。少し前の出来事も、別れるきっかけとなった50年前の出来事も、表面化してはいないようだった。

少なくとも、今のところは。けれど、宗治狼にとっては、それで十分だった。

「…けれど、母親が駄目というのならば、やっぱり宗助様の言うようにしたほうがいいのでしょうかね」

そういうと諷は自分の姿を変えようとし始めた。

宗治狼はあわてるが、後の祭り。

目の前には、宗治狼と同い年ぐらいの、長髪であどけない顔の少女が立っていた。

諷は自分の体のあちこちを確かめる。服装も和服至上主義の諷にしては十分以上センスのいい洋服だった。

「…どうでしょうか、宗助様」

「…え…あ、えーと…」

答えに窮する宗治狼。不思議そうな顔をする諷。だが、その顔はあどけない少女のもの。

「昔から日本人の感性は『わび』『さび』『萌え』だそうだ。古文の源氏物語とかそうらしいが、お前どう思う?」と龍哉に数ヶ月前言われたことを思い出し、今現在の状況と照らし合わせる。

結論。ただしいよ、どこまでも。少なくとも、僕は勝てない、その感性には。

自分の正直な感情に呆れる宗治狼。と、不思議なものを発見してしまった。

「…諷、尻尾」

「え?…あ」

諷のお尻から、体の半分ほどもありそうな立派な尻尾が顔を覗かせていた。変化を失敗した諷も諷だが、それに気付かない宗治狼も宗治狼だった。

あわててそれを隠す諷。尻尾がなくなると同時に、洗面所から制服姿の龍哉がやってきた。

硬直。

そしてその顔が静かに困惑をたたえ、宗治狼に迫る。

「…あの子供は誰だ」

「…諷だよ」

明らかに驚愕する龍哉。確かに、この間だけの印象では、こんなことをするような相手だとは思わないだろう。

諷は厳しく、まじめだが、どこか天然な所もあるのだ。

「…と、とにかく、朝ごはんにしましょう」

諷はその姿のまま、キッチンに料理を取りに行く。残った龍哉は宗治狼に疑問を発した。

「…お前、何言ったんだ」

「いや、ただあの姿だと見られたとき僕みたいにごまかすのが難しいかなぁ、と」

「…妹とでもいうのか?」

「従姉妹でもいいんじゃない?」

「俺が言いたいのはそうゆうことではなくてだな、その、俺に変な性癖があると友人たちに誤解されるのが怖いというか…」

そこまで考えていなかった、というか、ただからかうだけだったのがこうなってしまった、と思う宗治狼。嘘から出た真とはこうゆうことなのか?

「まぁ、何とかなると思うから龍哉がんばって」

「お前の責任でもあるだろ」

ため息をつく龍哉。

宗治狼は困ったように笑った。



「さて、今日はどうするかなぁ…」

龍哉が朝食を終え、部屋に残されたのは宗治狼と諷だけとなった。

諷は整理しがいのない龍哉の部屋を、それでも整理しようと努力している。多分15分もあれば終わるだろう。

一人が二人に増えてもたいして変わりはしないが、お互いを尊重しあって話が決まらなくなりがちになるのは否定できない。

それにしても、だ。

諷と鼬丸は宗治狼と龍哉、そのほかの監視という名目で来ているが、本気でそれを許可した翁彪が信じられない。

宗治狼と諷、それに鼬丸の関係は十二精―今はこれで4人の欠番が出ているが―には知られている。

諷も鼬丸も監視をしっかりと行なうとは思えないし、翁彪には別の考えがあるとしか思えない。

だが、千年生きた宗治狼と、五千年生きる現存最古の生霊とでは知恵も策謀の力も違うのは明らかだった。

けれど、評議員の中でも宗治狼が一番翁彪に近しい存在であるのも事実であった。

それというのも――絶衛もそうであったのには驚いたが――宗治狼が完全なる天然ではないということ。

“素体”が存在しているということである。

まぁ、そんなことはどうでもいいか、と思考を切り替える宗治狼。

今はどうやって時間を潰すかが問題だ。

鼬丸のところに行くのもいい。ただ、そうすると中学に入らなければならず、狐の姿で行っても安全である保障はない。むしろ面白い物好きである昨今の中学生相手では身の危険が多いところである。

そんな中に、武と意気投合したからといって、好んで行こうとする鼬丸が信じられないところではあった。

だったらどうするか、だ。

別に腹は減っていないし、生霊である以上、一日二日食べるという行為によって言霊の力を回復させなくても、普通に生きることなら余裕だ。

やはり散歩だな、と宗治狼が思い立って、窓を開けて音もなく跳び去ろうとしたとき、

「宗助様、ちょっと」

諷に呼び止められた。

狐状態になっていた宗治狼を、子供とはいえ、きちんと二本の腕がついている諷が抱きかかえる。

「…あの、諷、どうするつもり?」

「いえ、ただ逃げ出さないように、です」

その言葉には他意は感じられなかったので、一応警戒を解く。

しばらくそのままで何も言わない諷。身動きがあまり取れない宗治狼は、少女の姿とはいえ胸元に固定されているので気恥ずかしい。

宗治狼が場の空気に耐えられなくなって何かを言おうとしたとき、諷の戒めがややゆるくなる。

「……諷?」

「宗助様、今日は私もお供します。連れて行ってくださいね」

単なるおねだりだったが、宗治狼にはやわらかい脅迫にも聞こえた。多分気のせいで、実際気のせいだろうが。

それに、50年もほったらかしにしていたら断るにも断れないし、何よりその顔が反則だった。

「…うん」

「ふふ」

やわらかく笑って宗治狼を離し、自らも狐になる諷。

「…ああ、そうだ。一ついい?」

「?何でしょうか」

「僕のことは宗治狼と呼んでくれ。宗助と呼ばれるのは、最近はあまり、な」

「…わかりました。宗治狼様」

「様もつけないでくれよ。それからその言葉遣いも少し軽くならないかな」

「……難しい注文ですね」

「わかったよ」

軽く笑って、窓から飛び出す宗治狼。後から諷が出たのを確認して、言霊で窓に鍵をかける。

いつもは一つの金色の影は、今日は二つだった。



川のそばの、河川敷にある草原。そこは野球ができるような広さではないし、今この時間帯には人が少ない。

基本的にいつも来る人は少ないけれど、と宗治狼は思う。

だからこそ、絶好の日向ぼっこエリアの一つであるのだ。

せっかくだから、と少年姿で仰向けになった宗治狼は、季節区分では秋だけれど、まだ夏の暑さが若干残る日差しを浴びて、心地よい気分になっていた。

「いい場所ですね」

左上方から聞こえたのは女の声。名前はわからないが、雑草のような花を手に持った諷が川を眺めていた。

「そうかな」

「そうです。少なくとも、今評議会のある地下よりはよほどましです」

確かに、と宗治狼は笑う。

自分も1年もたたない、去年の冬まで、つぼの中に封じ込められていたのだから、窮屈なのがどう辛くて、そうでないのがどれだけ幸せなことかよくわかる。

実に、自分で望んだのだが、20年間はつぼの中だった。壺からでて、久しぶりに見た沙理奈の第一印象が老けただったことは決して言わない。いえない。

けれど、と宗治狼は思う。

30年の間の自由な時間でも、この1年にも満たない間の自由とはわけが違った。

離反に対する評議会の追っ手から逃げ隠れ、諷や鼬丸とのつながりを断ったことによる喪失感に悩まされ、あてもなくさまよった30年。

沙理奈とであったのは、沙理奈がまだ6歳の頃だった。協会に流れ着いて、1ヶ月ほど共に過ごした後、望んで壺に封じられた。

戎璽によって。

そして去年の夏、一度事故から壺が割られ、沙理奈と再開した。あの時はもう一度封印してくれるように頼んだ。

50年前も、その時も、自分は死んでもいいと思っていた。

正直、そうまでして生きることに疲れていた。

協会を離反した理由も、どうでもよくなっていた。

けれど。

もう一度封印が解けて、気まぐれからしばらく外で生きてみようと思ったとき。

龍哉や、夏葉や、多くの人間たちと出会えた。

彼らと生活して、彼らと共に戦って、宗治狼は、ようやく生きていると実感できた。

だからこそ、評議会に戻るという決断を下せ、そして諷と向かい合うこともできた。

過去の罪を背負う勇気を持てた。

そう考えてみれば、今の自分は幸せなんだと思えた。

そして、それを肯定することができた。

宗治狼は半身を起こした。諷がこちらを向いてくる。

諷は、こんな自分のことを、それでも慕ってくれている。

つい先日の事だって、龍哉に恐らく嫉妬して、そしてあのまま龍哉を陥れることができたのに、それでも最終的には助けた。

その嫉妬もひるがえせば好意だし、50年たってなおその好意は消えていなかった。

きっと、わかっているだろうに。

きっと、知っているだろうに。

他でもない、この僕が、去り際に告白したのだから。

自分が。

僕が。

私が。

瞬迅九尾宗助が。

宗治狼たる存在が。

諷の実の兄を、およそ50年前に殺したということを。

それでも。

諷はこうして向かい合ってくれるのだ。

理由を聞こうともしないのだ。

それは宗治狼にとって安息であり。

苦痛であった。

それが、諷にとっての罪滅ぼしなのかもしれない。

生きているということが。

だんだんと黄色がかってきたススキが見えた。

しばらくの間向き合ったまま動かなかったことに気付き、宗治狼は空を見上げる。

深く考えても仕方がない。

深く考えることに意味はない。

真実は、語る必要もない。

ましてや理由など。

だから、

だから。

今は、こうして。

「諷、あれ見てみろ」

「え?どれですか?」

諷が宗治狼の指差した方向―宗治狼の右手側―を覗き込んだとき、宗治狼は諷の背中を引き寄せた。

「きゃっ…」

当然、宗治狼の上に諷が倒れ掛かる。

少しの後、状況を把握した諷の顔に赤みが混じる。

「そ…宗治狼、様…?」

「様はつけるなって言っただろう?」

「…え、えと、その…」

あわてる諷が、この上なく愛おしかった。

「諷…」

「………」

宗治狼はそのままの体勢で、人間体の、大人の姿になった。

そして、優しく、強く、諷を抱きしめる。

諷は少女の姿で戸惑った後、自らも元の着物姿の女性に戻る。

太陽の、金色の光が、風と共に駆け抜ける。

青い空、緑の草原の上。

二つの影が、しっかりと、そこに存在していた。




鳳凰の陽炎 へ





言霊へモドル