ほうおう かげろう
 −鳳凰の陽炎−



はんばしたくや
磐橋卓弥のアパートは、一見してアパートには見えない。むしろホテルで、実際には社員寮である。

少し前、といっても3年前にできたばかりで、まだ新しい上に、設備も結構整っている。

龍哉の生活するマンションには劣るものの、普通の高校生が生活するのに狭い空間では決してないほどの広さはある。

卓弥はその社員寮の一室で目を覚ました。

なり続ける目覚まし時計をきり、布団の誘惑に打ち勝って起き上がる。

まず朝食をとらなければならない。卓弥は寝巻きのまま(といってもジーパンにシャツだが)で部屋を出る。

ホテルのような、というのは、そのままホテルの内部のような構造の建物であるからだ。

さらに、食堂もあるし、大浴場もある。勿論それぞれの部屋にはシャワールームもあれば、キッチンもあるのだが。

食堂に入ると、そこには既に何人もの人間が存在していた。そのすべてが卓弥の知った顔。特にぼさぼさの金髪が目についた。

社員寮である、というのは、このホテルのようなアパートが、協会の関係者専用の入居施設であるということだ。つまりここにいる人間は日常生活に溶け込んでいる協会員たちである。その活動は主に諜報などで、彼らはほとんどが言霊を使うことに関してはレベルが低い。

例外が卓弥を含めて3人いるが。

そのうちの一人に声をかける卓弥。

「おっす、フェリオ」

「あ、グッモーニン!卓弥」

朝からハイテンションなフェリオ。英語風に言えばウィズ寝癖、である。

「相変わらずここの料理は意味深においしいものばかりだよ〜。病み付きになっちゃうネ!」

うれしそうに笑うフェリオの前には何を勘違いしているのかマヨネーズがたっぷりの納豆に、イタリアンドレッシングらしき物体がかかったたくあん、コンソメと味噌を混ぜたようなえもいえぬスープ、それにイカ墨なのだろうか、黒いご飯。

確かに、味覚が狂うには十分なメニューだが、まさかあの人がわざとこんなものを作るわけ…

なきにしもあらず。

唐突に不安になった卓弥は、料理場のほうへ向かう。

カウンターのところに、目当ての顔がいた。

「唯さん、今朝フェリオはなんて注文したんですか?」
                                           はばねゆい
自称26歳の若い女性(恐らくそれより年下)、この社員寮の料理人たる羽羽根唯はいつものように笑みを浮かべる。

「うんっ!今朝はフェリオ君は、『マヨネーズ納豆、イタリアン風味のたくあん、和洋混合スープ、ブラック米コメ』を注文したよっ!」

元気にトンデモ単語を口にする唯。卓弥は狼狽した。

「メニューに常人なら卒倒するような殺人料理を載せるのは止めてくださいよ!」

「そうかな?けっこう好評だよっ!たとえばフェリオ君とか、フェリオ君とか、フェリオ君に!」

「明らかにあいつだけじゃないですか……確かに唯さんと共通する究極の味覚の持ち主ってことはそれだけで価値はありますけど」

「でしょでしょ!?ならたっくんも挑戦挑戦♪」

「俺はまだ死にたくないので遠慮しますっていうかたっくんっての止めてください、恥ずかしい」

「む〜〜、たっくん意外に厳しいねぇ」

疲れる、と卓弥は思った。

唯はその持ち前の明るさとハイテンションさで人気の人だ。

年齢を高く偽るのは非常に疑問だが、それとは関係無しに、卓弥はなぜか唯が苦手なのだ。理由は不明。

とりあえず、人間の食えるもので、しかも今朝は食欲があまりなかったので、軽くサラダとパンにしてもらった。

フェリオの向かいに座り、パンに手をつけ始めると、フェリオのその後ろに見慣れた顔があった。

その男――港来高校で卓弥たちの担任教師をしている、谷口は、卓弥を見るとよっ、とばかりに手を上げてきた。卓弥は軽く笑ってみせる。

谷口もいわゆる諜報員の一人である。いつからいるのかは知らないが、卓弥がこの寮に入居した2年と少し前には既にいたから、結構長い人間らしい。

寮ではたまに学校の裏話についていろいろ持ちかけてきたり、成績に関して個人面談らしきものを廊下ですれ違うたびにされる。が、卓弥は基本的に優等生レベルの方面であり、谷口はあまり口うるさくはないので、単なる世間話とあまり変わらない。

それよりもむしろ、谷口は龍哉に関していろいろ気にかけている。仕事の内容が学校の言霊使用者の監視であるとか、そういうのとは関係なしに。

さらに谷口は仕事上で違反を犯している人間の一人である。沙理奈たちと個人的につながりがあるのだ。

さすがに情報はばらしてはいないだろうが、どういう縁なのか、意外に親しい。

年のころから考えても、学校が同じ、というのはまずないだろうが。

そうこう考えていると、食堂のドアを開けて例外3人目が入ってきた。

凌斗は相変わらずの表情でカウンターへと向かう。

「おっすおすおす、りょーちゃんおはよっ!元気してる〜?してそうだねっ!」

「朝から五月蝿いな。手より口が動いていることに気付いてさっさと行動比率を修正しろ」

「ぶーぶー。りょーちゃん愛想悪いよー。そんなんじゃせっかくの美形がだいなしよ〜?」

「余計なお世話だ。それよりも俺の出したバイキング化の案は通らないのか」

「むっふん、わたくしさまが独断と偏見によってその意見は却下させていただきました!」

「音速で死ね」

「口が悪いよーりょーちゃん!いくら寛容な俺様ちゃんでもそんなんじゃ付き合ってあげないよー?」

「いちいち一人称を変えるな、さらに望んでもいないことを口走るな」

「む〜〜………」

「むくれるな。まったく…………こんなのが幼馴染だとは、俺も隼もとんでもない運命を背負っているな」

「聞こえてるよ!」

「聞こえるように言った」

「りょーちゃん非道っ!それに私のねんれーは絶対守秘義務でしょー!?」

「もういいから、飯をよこせ」

どうして凌斗は唯のことを知っていたのだろう。凌斗が入居してきた日に感じた疑問を、先程の会話が解決した。

それに唯が年不相応に若く見えるのも気のせいではなかったらしい。幼馴染ならば年はだいたい同じ、つまり17から19ぐらいだろう。

そんなことを考えながら卓弥はサラダのレタスをつつく。

今日は日曜だったから、学校はない。

諜報員ならそれでも行動するものもいるが、単に戎璽から戦闘要員として配置されている卓弥たち例外の人間は言禍霊が出ない限りはお休みだ。

……やることがない。

「そういえばさぁ、今日はバレーの新人戦だってサ。うちの学校は期待の新鋭の樹がいるから注目されてるらしいヨ?」

…バレー、か。

暇だし、行ってみるか。

「フェリオ、お前今日…」

「暇じゃないよ。壊したサーベルの代替品を取りいかなきゃだし」

「そうか」

ま、一人で行くのも悪くはない。

もしかしたら樹の応援で夏葉が来ていて、それに引っ付いて龍哉が来るかもしれない。

それはそれで面白いことだ。

卓弥は食べ終わった食器をカウンターに返そうとする。

その服を、後ろから止める手。

フェリオが少し不自然な笑みで、卓弥を見る。

「…ちょっと多すぎたみたい。卓弥、食べ」

「俺死にたくないからさ〜、凌斗に頼んでくれよ」

「それどっちに転んでもボクが死ぬよ!」

さすがに超前衛的新作料理に異常味覚のフェリオも危険信号を発し始めたようだが、その尻拭いなど誰がするか。

ほっといて食器を片づけ、退室する卓弥。背後には消沈するフェリオ。

唯さんは自分の料理を残す奴を許さない。これまでのところ、最低でも罰として一人で料理場と食堂の掃除をさせられている。

かといって凌斗に食べさせることは不可能に近い。もし食べさせたとして、異常味覚のフェリオが駄目なら当然凌斗も駄目なはずだ。

つまりどっちに転んでもフェリオはアウト。

かわいそうだなぁ、フェリオ。ドンマイ。

助けないけどね。




セキュリティロックがばっちりかかった玄関を、卓弥は特に何も持たずに通り過ぎる。

「おう、若いの。どこ行くんだい?」

玄関の外の花壇の花に水をやっている女性が話しかけてきた。

まだそんな年寄りじみた言い回しが似合わないほどの、結構美人な女性。

確か年は30代後半だったか、と卓弥は考える。

「年上の質問には答える答える。アンタの部屋だけセキュリティロック変えようか?番号はアタシだけが知ってるように」

「非道っ!管理人の特権を悪用しないでくださいよ、霞寝さん」

「アタシは名字で呼ばれるのが好きじゃないって言ってるでしょが。物分りが悪いねぇ、最近の子供は」

卓弥は苦笑いする。

年不相応なのはこの社員寮の女性の鉄則であるのか、まだ若いといえるはずの30代の管理人、霞根悠子(かすみねゆうこ)はこんな言い回しがお気に入りらしい。

「それで、さっさと答えなさい。アンタは日曜出勤はないでしょーが」

「プライバシーの侵害とか考えないんスか?」

「アンタにゃそんなものないに等しいって。アタシの気が長い内に言っといたほうがいいよ?」

「はいはい。友達が大会らしいんで応援ですよ」

「コレか」

「小指立てて勝手にそんな想像しないでください!」

「お前はわかりやすいぞ。ウムウム。素直でよろしい」

「普通誰でもあせるでしょうが」

「お前はあせるイコール真実の可能性大だから」

「…はぁ」

卓弥にとって、応対で疲れるのは唯と対して変わらない悠子だが、卓弥としてはこちらのほうがどちらかというと得手なほうである。

というより、誰でもとりあえずは普通以上に接することができる卓弥にとって、唯の場合がイレギュラーなのだ。

「んじゃ、行ってきますけど」

「おう」

なぜだか親指を立ててくる悠子。

卓弥は再び苦笑いして見せた。




「確か……このあたり…お、あった」

卓弥の目の前にあったのは、港市では最大の規模と環境を誇る、港中央総合体育館だった。

一号館と二号館が隣接しており、両館はガラス張りの空中渡り廊下その他で行き来可能。

そのどちらの体育館も、公式のバスケットコートが二つ分以上の無駄に広い設計で、バレーなら二つ使えば一気に8つの試合が行える。

市内戦でも、県大会でも使われるその体育館は、しかし今日はバスケットの試合と並列して行われていた。

ちなみに柔道と剣道の3号館、弓道場などもあり、さらにはスポーツセンターまであるという卓弥からしてみれば税金の無駄遣いでしかない一大施設である。

すぐ近くに陸上競技場や港球場、サッカードームもあり、テニスコートにラグビー場までと、このあたり一帯を総して港大運動公園と呼ばれる。

卓弥が先程迷っていたのは、その広さで中央体育館の場所がよくわからなかったという理由である。

卓弥は今度は迷わずに、バレーの大会が行われている二号館へと入っていった。

この時点で、卓弥は二つの思い違いをしていた。

一つ、今日バスケの試合も行われているということは、秋の市内大会である、ということ。

つまり夏葉は公式テニスのほうに出場しているわけで、どうあがいても龍哉がバレーを見には来ない。

もう一つ、バレーの場合、男女の競技が行われるのが別々の日なのである。

つまり、男子は昨日既に終わっていて、今日は女子の日だということだ。

日曜でサボリ気味の脳細胞が、それでもフルに回転すれば気付いた事実を見逃したことが、これから卓弥を地獄へと突き落としていく。




「………え〜〜〜〜、と」

当然の帰結というか、当たり前の事実というか、

体育館内は女子であふれていた。

ある程度の場合、男子の応援は男子+少数の女子がやるが、女子の場合は男が来るとむしろアレである。

それでさえ、男女が同じ日に競技を行ったらの話であって。

つまり、現在進行形で体育館にいる男子は、いて顧問の先生だとか、バレー部員の彼氏だとかで、限りなく少なかった。

その時点で卓弥が諦めてすぐに戦略的撤退をしていればよかったのだが、少しだけ樹を探してみようという心理が働いたのがさらに転落につながる。

体育館の中二階にいた卓弥は、これまで女子に見つかってはいなかった。それに、仮に見つかったとしても本人が堂々としていれば怪しくもない。

だが、卓弥はそれに耐えるだけの精神力を、戦闘時とは違って、こんな場面では発揮できなかった。

それ故に、港来高校の生徒を探している内に女子の視線を受けて、さらに遠目に向かい側からやってくる女子も見えて、咄嗟に一階への連絡通路に入り込んでしまった。

冷静に考えて、顧問以外の高校生のような男が一階にいくことはまずないわけであって。

それに気付いた卓弥は、連絡通路内の一部屋に入り込んでしまった。

卓弥にしてみれば、姿を隠す最終手段。一般的に、袋のねずみ状態とも言う。

当然、中に何もないわけがなかった。

明らかにどこかの高校の控え室で、そこには着替えやら何やらが散らばっていて。

それで言霊を使おうという冷静さも失った卓弥はうろたえるだけ。

さらに運命の女神は残酷だった。

連絡通路に響く声。それがだんだんと卓弥のいる部屋に近づいていった。

思考回路がバーストした卓弥は、それでも何とかロッカーの中に隠れる。

と、ほぼ同時にドアが開き、女子が何人か入ってきた。

「あっつーーい!」

「もう〜、汗だくだよ…」

刹那の間だけ運命の女神に感謝した卓弥は、すぐに千倍の憎しみに変えて女神をのろった。

卓弥が入り込んだロッカーは女子の着替えがつまっていた。

この状態で発見されれば――死。

どうか、どうかっ!!

神頼みしかない卓弥。

残酷な女神は女子たちに卓弥にとって最悪の行動を取らせた。

つまり、女子たちは着替え始めたのだ。

うれしいかもしれない光景だが卓弥にはそれをうれしいと思えるだけの余裕がない。

「新人戦とはいえ、緒戦から最強の尾賀高校となんて…運が悪かったよねぇ」

「でも2−3だから、結構粘ったでしょ」

「まぁね。それに俺らは全員1年だったわけだし」

「そうだよねぇ。2年が0人って、いまだに信じられないよ」

「てか、そのしゃべり方どうにかななんないの?あんた」

「ん〜〜、もうこれは慣れちゃって」

「ちょっと男の子ゲットするときには損かもよ?その口調」

「五月蝿いって」

どうやら目の前の高校生たちは負けてしまったようで、帰るために着替えをしているようだ。

だとしたら――確実に死。

卓弥は女神を呪った。

前世の分とその前の分と現世の分すべてをかけて呪った。

それをあざ笑うかのように、女神は非道な行いをした。

女子が一名、卓弥のロッカーに狙いたがわず近づいてきた。先程の会話にも参加していた男口調の女だった。

卓弥の頭は真っ白になって、気絶しそうになった。

まさに風前の灯。たとえるならすぐに消え去る夏の陽炎。

と、その女子がロッカーに手をかけたところで、止まった。

そして、女子はロッカーから手を離す。

「あー、ちょっと忘れ物しちゃった…」

「まったく、ドジだなぁ、見かけによらず」

「うっさい。みんな先に帰っててくれ。ちょっと時間かかりそうだから」

「一緒に探そうか?」

「いや、いいよ」

そういって、その女子は部屋から出て行く。

残された卓弥は、放心状態だった。

しばらくして、最後の女子たちの気配が部屋から消えてから、卓弥はふと我に返った。

今なら、と思って部屋から脱出しようとした時、例の女子――ロッカーの主が部屋に入ってきた。

途端にまた大きく跳ねる卓弥の心臓。

今度は、何の迷いもなくその女子はロッカーに手をかける。

卓弥が自分の人生を振り返り始めたとき、ロッカーは開いた。

「…説明、してもらおうか?」

小さな声で、卓弥にそう話しかけてきたのは、樹だった。




「なーるほどねぇーー」

制服に着替えて体育館の外、運動場の中を流れる小川に沿った公園の一つのベンチで、樹は納得したのかしていないのか微妙な返事をする。

その手に握られ喉に流し込まれているファンタは卓弥のおごりだ。

「…いや、そのさ、信じられないのはわかるが…」

しどろもどろに答える卓弥。

「確かにね。俺もお前が女子に対してそういう趣味を持っているとは思わなかったよ」

「………」

「冗談だって。本気にするなよ、卓弥」

ケタケタと笑う樹。卓弥はより一層げんなりとする。

「とにかく、あの場面で俺が隙間から中を覗いていなくて、しかも気付かなくて、さらに機転を利かせてなければ、お前は性犯罪者の仲間入りだったわけだ」

「…スマン」

「と、言うわけで、これから一週間毎日ジュースおごり、な」

ニンマリ、という擬音が似合いそうな笑みを浮かべる樹。まったくの偶然の三拍子がそろった救出劇だったわけだが、それだからこそ、卓弥の元気はもりもりと下がっていった。

卓弥はもう、このやりようのない怒りを運命の女神にぶつけるしかなかった。自分で冷静に見つめてみると、怪しいファンタジーな人間と化していたので止めることにした。

とにかく。今日ここに来たことを卓弥は後悔していた。

「でも、さ。あんがとな」

「へ?」

突然の樹の礼に、本気で驚く卓弥。

樹の手から放られた缶が、きれいな放物線をえがいてゴミ箱に吸い込まれる。

「応援に来てくれたんだろ?一応」

さも当然のようにそういう樹。

「あ、ああ…」

「だから、お礼はいっとかないとな」

笑う樹。

「あ、でも結局一回戦で負けちまったから、応援には間に合わなかったわけだ。悪いことしたなぁ」

「あ、いや、別にお前が気にすることでもないだろ」

「ん。でも俺はうれしいぞ。応援に来てくれるなんて思ってなかったからさ」

堂々と、気恥ずかしいことを言う樹。卓弥は微妙に赤面するが、樹は何事もなかったかのように言葉を続ける。

「だから、まぁ一週間で済ませてやってんのよ、口止め料は」

そういうと、樹は卓弥の手の中のファンタを奪い取る。

そのまま口をつけて飲み干してしまった。

あっけにとられる卓弥を見て、意地悪そうに笑う樹。

「…お前、今日何でここまで来た?」

「ん、え、う?」

いきなりの間接キスに柄にもなくあわてる卓弥。数瞬かかってようやく問いが理解できた。

「あ、ああ、バイクだけど」

「おっし。俺は今日バスだったから、送れ」

「はぁ?」

「イヤナラバラスゾ」

「性格悪いな、お前!」

「お前ほどじゃないさ。まぁ、ばらすのは簡単だし?」

卓弥は観念した。

「…わかった」

「そういえば免許持ってるのか?」

「一応、この間取った」

というのは嘘で、もともと子供時代にバイクの運転方法は協会で習っていて、この間の一件で、やはりバイクと免許はあったほうがいいと、協会に申請しておいたのだった。

「んじゃ、ついでに買い物に付き合ってもらうか」

「マジかよ……い、いや、喜んで」

卓弥は完全に樹に敗北していた。

けれど、なぜだか敗北した後の苦い思いはわいてこなかった。

多分、樹がそこまでひどい奴じゃなくて、いい奴だからだろう。

いやなことも、冷静に考えれば樹にとってもいやなことであったはずのこの事件を、笑い話で済ませられるようにしてくれているのだ。

卓弥はヘルメットをかぶる。一応二人まで乗れるということで、常備しているメットを樹に渡した。

「おっし、出発進行ー!!」

背中に、樹の確かなぬくもりがあった。

卓弥は、今日ここに来たことを、ほんの少しだけ後悔し、

それでもよかった、と思った。

昼下がりの太陽の下、バイクの影はまるで陽炎のように淡く。

それでもはっきりと、空を飛ぶ鳥のように。

どこまでも伸びていった。




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