−白と黒の軌跡 前編−
まだ朝早い時間、学校があるわけでもないのに、隼は家の玄関にいた。
服装も制服などでは勿論なく、いつものように隼によく似合った落ち着いた印象を与える私服を着ている。
隼は、携帯を取り出してメールを見る。
昨日の夜に、凌斗から来たメールが表示されていた。
「明日、10時に、俺達のマンションへ来い。唯が久しぶりに会いたいそうだ」
隼はそれを見て、昨日の夜そうしたように苦笑する。
携帯をはじめ、パソコンは勿論、何かボタンがついているものはとにかく苦手で、果てはレンジすら満足に扱えないほどの機械音痴である凌斗が、それでも送ってきたというのだから、その苦労の様子を思い浮かべるだけで口元が緩む。
隼は時間通りに行こうと、家をもう一度見てから、振り返って道路を進み始める。
今はこの2階建ての広い家、青い屋根の家に住んでいるのは、4人の家族ではなく、隼一人だった。
それは雨の日だった。
そうだったと、隼は記憶していた。
あまりにも、水の量が多かったからかもしれない。
それが、塩の味がしたのも覚えている。
「隼、お前は、父さんと行くだろう?」
もう顔も満足に思い出せない、アルバムからも消え去っている父の、それでも鮮明な声。
その優しい声の裏には、怒りや、憎しみや、悲しみ、そして疲れや、不安が秘められていた。
まだほんの子供で、3歳にも満たなかったはずの隼には、その問いかけが何を意味するのかわからなかった。
父も、母も、見知らぬ女性と隼以外の人間、生まれたばかりの弟である洋介ですら大人の空気を感じ取って、その三人が、雨にぬれていた。
隼は何が起こっているのか理解できなかった。それ故に、答えはそのときの気まぐれだった。
「ううん、今日はおうちにいたいよ。だって、雨が降ってるもん」
「……雨?」
父が問い返す。隼は正直に答えた。
「うん。だってパパもママも塗れてるよ」
隼が覚えているのは、ここまでだった。
その後、もう4人以上が青い屋根の家に住むことはなかった。
凌斗たちが現在住んでいるマンション、の形を借りている社員寮は、表向きには「セントリオパレス」という名前がついている。
3年前にできたばかりの7階建ての建物で、外見だけ見れば立派なつくりである。
勿論外見だけでなく、ドアというドアはすべてオートロックで、しかも防音処理の壁。センサーも気付かれないように二重三重に仕込んであるだろう。
すべて言霊の存在を露見しないように、という協会側の配慮である。
結構、一箇所に言霊を使う以外共通点のない人間たちが集まるというのは、それだけで一般人にとってはおかしな事態ではあろうが、言霊師や諜報員を統率するという意味で、一箇所に集まっているのは便利であるのは確かだ。
玄関口には、やっぱり数個の監視カメラがあった。
郵便物等はどこに置くのか、というと、それ専用の建物が敷地の入り口と玄関との間に設置してあり、ガラス張りのそれの中の郵便受けに入れていく、というシステムになっているらしい。
彼女などをつれてくるにしても、ここの住人でなければ勝手に入ることはままならず、それでさえ危険でないかの審査が秘密裏に行われているのだから、ここに彼女を連れてきた時点で大半は破局へ向かうだろう。
「おやぁ、久しい顔だね」
右側からした声に隼が目を向けると、そこには言葉とは裏腹に新聞片手にコーヒーを飲む女性の姿があった。
隼は表情を崩して女性のほうへと向かう。女性がようやく新聞から顔をあげた。
「久しぶりですね、悠子さん」
「おお、アンタは覚えてたか。さっすが、白の牙とか何とか呼ばれるだけはあるね」
隼は苦笑する。
「貴女にそういわれると、喜んでいいのか、それとも皮肉として受け取るべきなのかわかりませんね、東の小島の魔女さん」
霞根悠子は、それでも眉一つ動かさない。
「口が悪くなったね、それはほめられないよ」
「貴女は変わってないですよ」
「はいはい。んで、今日の用はなんだい?基本的にアンタは離反者として捉えられてる筈だから、こうも関係者がいるところに集まるとは驚きだけど」
「まぁ、凌斗に呼ばれたもんで」
飄々としている隼。確かに、よく考えなくてもここは協会の出張機関、敵の巣だ。いくら諜報員たちがそのほとんどとはいえ、言霊具で武装されたらそれこそ核爆弾を止めようとするよりも突破は難しいだろう。
それでも隼は別にどうということもないらしく、実にいつもどおり構えていた。
「…凌斗は……あった。502号室だよ」
それ以上は何も聞かずに部屋を教えてくれる悠子。礼を言って立ち去ろうとすると、最後に皮肉げに口をゆがめて、言った。
「白と黒じゃあもう交わらないんじゃないの?」
隼が表情も変えずにそちらを向いたときには、悠子の興味は新聞へと戻っていた。
「…おじさん、誰?」
小学生となった隼は、学校で言われているように、見知らぬ人に話しかけないように、というのを無視して、異常な存在感を、少なくとも隼にとっては、示していた老人に問いかけた。
学校帰りの公園のベンチに腰掛けていた白髪の、長い髭を持った老人は、その髭をなでながら、隼に答える。
「ん?わしはたいしたものではないよ。少なくとも普通の人から見れば」
思わせぶりな老人の発言に、しかしその意図を読み取れない子供の隼は首を傾げるだけ。
「それより、さっき聞いただろう?元気かな、と」
隼はいきなり話しかけられたのだから、当然聞き返しただけなのだが、それでも問いかけに答えていないのが悪いことのように思えた。
「…元気、ですけど」
「嘘だな」
老人の声には、決め付ける要素が含まれていた。だが、なぜだか隼にはそれに怒る気持ちは生まれなかった。
「…お主、母親と弟を、助けたいと思わないか?」
「……どういうコト?」
老人はベンチから立ち上がり、隼の方へ歩み寄る。
座っていたときはそんなに大きく見えなかったのに、立ち上がった老人は異様に巨大に見えた。
隼は思わず、魔法の言葉を口走ってしまう。
「“こ、来ないで”」
普通の人間だったら、誰であろうとその言葉で隼に近寄ることを止める。
だが、その老人は違った。気にもせず、隼に一歩一歩近づいていく。
恐怖、それに似たものを感じる隼。老人の手が、大きな手が、伸ばされる。
隼の、あたまを優しく触ったその手は、ゆっくりと、隼をなで始める。
「…自覚しているだろう?自分が何か、特別な力を持っていることを」
「…………」
隼は答えない。言ったところで、これまで信じてくれる人はいなかった。
友人にも笑われ、先生からはそんなものは無いといわれ、母親からは疲れたように先生と同じことを言われた。
けれど、目の前の老人はその力を肯定していた。
「その力で、お前の母さんと弟を助けることができるぞ」
「………お金、もらえるの?」
「ああ。お前が私と来ればな」
隼は、幼いながらにも知っていた。
母親が、母親の親から引き継いだ、莫大な額の借金を持っているということ。
父親との離婚も、それを隠していたことと、その借金の相続が正式に決まったからだというのも知っていた。
だから、隼は母親を不憫に思っていた。哀れに思っていた。
かわいそうに思っていた。
だから、
老人の手をつかんだ。
離さないように。
「ああ、来たのか。時間通りだな」
502号室を開けると、玄関で凌斗が待っていた。
あまりにも不自然なその出迎えに、隼は凌斗ならこういうこともしかねない、と一瞬本気で思ったが、すぐに悠子のほうから連絡が行ったのだろう、と自己解決した。
隼とほぼ同じくらいの背丈と頑強な肉体を持ち、それでいてすらりとした肉体の凌斗の後ろから、どうやって隠れていたのか、女が飛び出した。
「あややや!!ハヤ君!?ひっさしぶり〜〜!!ずいぶんと変わっちゃっててちょっとわかんなかったよ〜!うんうん」
今度は凌斗が女を連れ込んでいたのかと果てしなく驚愕したが、その態度と口調、それと一割ほどの面影から、それが羽羽根唯であることを理解した。
本気で胸をなでおろす隼。勿論心の中でだが。
そんな隼を見た唯は不思議そうな表情をする。昔から感情表現が素直なのは変わってないな、と隼は思った。
「とにかく、ここであまり大声でしゃべるよりも、中のほうがゆっくりできるだろ?上がらせてもらうぞ、凌斗」
「ああ。ほら、唯どけ」
「む〜〜〜、りょーちゃん相変わらず五月蝿いっ!!」
「黙れ」
5年ほど前の光景とそっくりなその光景に、隼は口元を緩ませる。
それに目ざとく気付いた唯がたずねてくる。
「?どしたの、ハヤ君」
凌斗も止まって振り向く。
隼はできるだけ普段どおりの顔に見えるように、心の中の哀愁の思いを覆い隠して、言った。
「いや、なんでもないさ。凌斗、お茶は出るだろう?」
「任せておけ」
隼が居間で見たのは、かつてと、あまり変わっていない部屋の風景だった。
「隼!勝負しろ!」
またか、と隼は呼んでいた本にしおりを挟んで、ベットの脇に置く。
あくびをかみ殺しながらドアを開けると、隣の部屋の凌斗が、木刀を持ってやってきていた。
それを見ると、ため息が出ないわけにはいかなくなってくる。
そんな隼を見て、当然のように、凌斗は怒った。
「なんだ、その顔は!とにかく、勝負だ!逃げることは許さないぞ!」
「…凌斗、今日ぐらい休ませてよ」
「五月蝿い!今日こそ買ってお前の連勝記録を俺と同じ6で止めてやる゛ぁっ!?」
叫ぶように怒鳴っていた凌斗の体が、アニメのモーションのように左に吹き飛ぶ。
恐る恐る右を見ると、凌斗とは逆隣の隣人、羽羽根唯が投球を終えた投手の構えで立っていた。
「あんたたちうるさいー!!たまの休みぐらいゆっくりするっ!!」
左を向くと、重たい辞典をぶつけられて、足をふらつかせながら立ち上がる凌斗の姿があった。
「こ…の…いきなり何をぶつけやがる!」
「五月蝿いのがわるいのよっ!!」
「なんだと!?お前だっていつもは口うるさいだろう!!」
「ケンカ馬鹿にいわれたくないよっ!」
「胸も無いくせにっ!」
「なによっ!!自分は頭がないでしょっ!!」
「なんだと!!」
「なによっっ!!」
「ちょ、ちょっと、二人とも。今日は休日なんだから、いい加減静かにしろって」
一斉に止めに入った隼を睨みつける二人。あちらこちらから何事かとドアから覗き込む人々の姿が見える。
ため息をついて、強制的に止めることにした。
凌斗の右腕、竹刀を持っているほうを制して、部屋へと連れ込む。
何事かわめく凌斗も、極めた腕をちょっとひねったらおとなしくなった。
「凌斗のばーか!死んじゃえっ!」
アッカンベーのポーズをとる唯。その目が少し濡れているのに気がついて、隼はほっとする。
唯は泣かせたらそれこそ収拾がつかなくなるのだ。
とにかく凌斗の部屋に入り、鍵を閉めてから腕の極めを外す。倒れる凌斗の顔は蒼白になっていた。
「…おまっ、お前、ふざっ…けるな…」
「わかってるけど、ホントに今日ぐらい休ませてくれよ」
凌斗の部屋は、隼と比べるとまったく違っていたので面白かった。
ベットとテーブルがあるのは変わらないが、壁際には竹刀やら木刀やら、真剣らしきものまで飾ってある。さらには壁にいろいろな封言符がきっちりそろえて飾ってあった。
さらにはトレーニング器具がいくつか転がっていた。
ようやく回復した凌斗が、けれど今度は怒鳴らずに、隼を指差す。
「…明日は戦ってもらうぞ」
隼は軽く息をついた。
「わかってるよ」
「ふん、ならいいさ」
凌斗は立ち上がって台所へと向かう。別に料理をするわけでもなく、オプションで各部屋についているのだが、お茶を入れたりするのには役立っている。
凌斗は無類のお茶好きらしく、初めて部屋に入ったときには、台所の戸棚に所狭しと並べられている茶缶や茶葉には驚いたものだった。
もうこの施設―総合言霊関係養育教育施設、通称協会言霊学校に来てから、2年程が立つ。
始めの一年は母や弟のことを思い出して涙が出てくることもないわけではなかったが、今ではすっかりそんなことは無い。
むしろ、母や弟を助けることができたのだから、と、うれしさも感じている。
「ほら」
凌斗の声と、顔の前に差し出される湯のみ。
隼はそれを受け取った。
「…ほら」
「うん、ありがと!」
隼に続いて湯飲みを渡されて、礼を言う唯。
確か、凌斗と唯の仲がだいたい今のようになったのは、俺が脱走する2年ぐらい前、施設に入ってから6年目、だったか、と隼は回想する。
7〜8歳ごろの二人のやり取りは、今現在の二人だけを見ていると、信じられなくなってくる。
そう考えながら、隼は本当に久しぶりに、友人が淹れてくれた茶を飲む。
熱すぎも無く、ぬるすぎずも無く、適度な温度で淹れられたお茶に、隼は思わず息をつく。
「ん〜〜!おいしいねっ!」
唯が元気にそう言った。
凌斗が少し得意げな表情をする。
「これは玉露だ。高級品を、ワザワザ本場から取り寄せたものだ」
確かに、市販のペットボトルの玉露茶とは味が一味違う、様な気がする。
隼はお茶をゆっくりと飲みながら、問いかけようと口を開く。
「ああ、まったく、唯、茶はもっとゆっくりと飲むものだ。そんなに早くのんだのでは駄目だ」
「ええ〜?だってちゃんと味わってるし」
「それでは真に味わったことにはならない。お湯の一滴一滴、茶葉の一つ一つを感じ取るように、それこそ匂いからだな、こう…」
「あ〜もう、茶にこだわりがあるのは相変わらずなんだから。それより、今日はハヤ君も来てるんだからさ、もっといろいろお話しようよ」
口を開いたまま固まっていた隼は、唯の言葉で、問いかけようとしていた言葉を出す機会をようやく得た。
本人は助け舟を出したつもりなど無いのだろうが。
「それだ。俺を呼んだのって、本当に話をしたかっただけか?」
すると、凌斗は少し下を向いたが、唯は予想に反して即答してきた。
「うん。久しぶり――確か5年ぶりだからね。いろいろ昔話に花を咲かせましょ〜、ってね♪」
唯のその明るさが、隼の疑念を取り払ってくれた。
「そうか…そうだな」
「そ。んじゃ、何から話そうか」
「5年の間それぞれが何をやっていたか、というのはどうだ?」
「俺は拒否する」
「え〜?いいじゃん、硬いよ、りょーちゃん」
「五月蝿い」
「まぁたそれじゃない、りょーちゃんは」
隼は、久しぶりに心の底から微笑むことができた。
少なくとも、今、この瞬間だけは。
白と黒の軌跡 後編 に続く
言霊へモドル