−雨音の記憶 前編−
いい天気だな、と拓実は思った。
9月だというのに、まるでお花見日和であるかのような気持ちのよい天気。優しい太陽の光が事務所の窓から差し込んでいた。
今日は休日で兼ねている仕事も休みだったので、事務所に朝からやってきている拓実はしばらくその気持ちのよさを味わっていた。
しばらくして、ドアが開いているのにもかかわらず、中に誰もいないのに気付く。鍵を持っているのは自分と沙理奈と隼の3人だけなので、必然的にその3人のうちの誰かが事務所内にはいるはずなのだ。
隼の可能性はほとんどないだろうから、つまり事務所内には沙理奈がいるはず。
というよりも、沙理奈はここを住居にしているのだから、いなくてはおかしい。問題は、入り口が開いているのに事務所内に姿が見えないことだ。
やれやれ、と軽くため息をついて、奥の寝室用の部屋に向かう拓実。
ドアを開けると、案の定、4つあるベットの内、真ん中のダブルベットに沙理奈が倒れ伏していた。確認するまでもなく、意識は深い眠りの中だ。
沙理奈のところに向かいながら、拓実は昨夜のことを思い出す。
確か11時に拓実がここを出るときには沙理奈は起きていて、鍵は自分がしめるからいい、といっていたはず。
やっぱり閉め忘れてたんだな、と拓実は思わず苦笑いする。
ダブルベットの端の方に、沙理奈の体がないことを確かめて、ゆっくりと腰を下ろす拓実。そのまま斜め後ろに体をひねると、沙理奈の寝顔があった。
寝顔が可愛いかそうでないかで分類すると、沙理奈は間違いなく可愛い部類に入る。普段の傍若無人振りからかもしれないが。
拓実は無意識に、右手を沙理奈の頬に当てていた。そうしたことに、自分で驚きを覚えつつも、それでも軽く頬をなでてみる。
「…んん………」
表情が少しゆがみ、身じろぎする沙理奈。拓実は微笑を浮かべて、その様子を見ていた。
と、沙理奈の眼の下にある隈に気付いた。
微笑が、やや疲れたような表情へと移り変わる。拓実はため息をついた。先程のものとはまったく別種のため息を。
沙理奈は、明らかに疲れている。いや、疲れ続けていた。
5年前の出来事から今日までのあいだ、ずっと。
それがここ数ヶ月、龍哉を、“鍵”の一つをめぐる出来事の所為で、顕著に現れただけ。
それに、拓実は都合よく気付かなかった。いや、都合よく気付かないようにしていたのだろう。
ゆっくりと、深く息を吐き出して、沙理奈のブロンドの髪の毛をいじる。今でもきれいだったが、5年前と比べると、やはり多少見劣りもするし、髪質も落ちたらしい。
安らかな寝顔を見ながら、拓実は思う。
今、沙理奈さんはどんな夢を見ているのだろう、と。
5年前の事は、本当に正しい選択だったのだろうか、と。
いつものように、学校から帰宅した沙理奈はすぐさま着替え、入ってきたときと同じようにあわただしくドアを飛び出した。
それというのも、戎璽が訓練の時間をかなり無茶なものにしている所為だ。学校、協会内部に設立されている、言霊師の養成学校が終わるのがここの時間では4時。訓練は4時半からである。
学校から自室まで10分、そこから訓練場所として使っている数ある道場の内一つに行くのにさらに15分かかる。あくまで、大人の足で、だが。日本の、平凡な一市民のままであったなら中3の年齢である沙理奈にとってはその移動は大変なものであった。
かといって遅刻するわけにも行かないので、こうして毎日走っているのである。
いつものように、訓練の始まる4時半のおよそ5分前に第27訓練所にたどり着いた沙理奈。
訓練所に足を踏み入れると、沙理奈と同年代の少年が、既に剣を振り回していた。
羽佐間慶輔。両親共に協会の出身で、いまどき珍しい言霊の血の濃い家系に生まれついた。いわゆる、天賦の才という奴を期待され、またそれを発現している。
それ故に、こうして戎璽の訓練に参加させられているのだが。
慶輔は旋回させた刃を強烈な勢いで突き出し、かと思えば抜群の脚裁きでほとんどその場を動かずに、横薙ぎの鋭い斬撃を繰り出す。
沙理奈の目には、慶輔の一連の動作で灰と化していく言禍霊の姿が容易に想像できた。
横薙ぎから、緻密という表現が最も適するような動きで、切り上げ、頭上で刃を旋回、鞘を見ずに納刀する慶輔。
「沙理奈か。見物料とるぞ?」
後ろも振り向かずに沙理奈にいう慶輔。沙理奈は慶輔の動作に感じていた衝撃を無理矢理押し殺して、いつものように、学校でそうするように、厭味たっぷりな表情を浮かべる。
「そっちこそ、いること気付いてて、勝手に続けてたんでしょうが。さりげなくない自慢はやめたほうがいいんじゃない?」
慶輔が振り返って舌打ちする。その眉はややゆがんでいる。アレで笑顔でも浮かべればかっこいいだろうにな、と考えてしまった沙理奈はその思考をあわてて打ち消す。
「…フン」
慶輔は上手い反論を見つからなかったらしく、顔をそらした。
だったら振り向かなきゃいいのに、と内心で思う沙理奈だが、表面には出さない。
「時間通りじゃな、感心感心」
いつもながら、心臓に悪い登場のされ方、つまり突然背後に立たれるという出現をされて、沙理奈の心臓は跳ね上がる。
表情にも若干出てしまったようで、慶輔の小馬鹿にする顔が目に映る。
沸騰しそうになる頭を抑えて、怒りの矛先を戎璽に向けることで落ち着かせる沙理奈。
「戎璽様、そういういきなり背後に立つのはさめてくださいっていったでしょう?あたしがゴルゴ13だったら射ち殺されてますよ」
沙理奈の剣幕に押されたのか、戎璽は肩をすくめる。
「気付かぬお主が悪いと思うのだが」
「戎璽様が気付かせないくせに、意地が悪いってのはこういうことですよ」
不貞腐れてみせる沙理奈に慶輔は呆れ顔だった。戎璽は朗らかに笑う。
「いや、すまぬな。次からは気をつけるとしよう」
「次から次からって、もう10回以上言ってますよ」
「本当に次から、だ」
「期待しないで待ってます」
そこでようやく笑みを浮かべる沙理奈。
まったく、この人は子供だ。子供すぎる。茶目っ気があるとかそういうのを超えてしまっているように感じられてならない。
それでも、それだから、沙理奈は戎璽が好きだった。
唯一の肉親の代わりといえる存在だから、命の恩人だから、そういう理由抜きに、ただ戎璽という人物を尊敬し、敬愛していた。
「さて、では今日も始めるとするかの」
戎璽の号令で、慶輔も近づいてくる。
いつものような光景。沙理奈がここに来て、10年近くになろうか。ずっと続いてきた光景だった。
沙理奈たちには、言霊という力がある。
遙か昔、人類は知能を持ち、類人猿とは違う道を歩き始めて、そして文明を持ち、文字を生み出した。
その過程で、言葉というものも生み出したのである。
そして、人類はその言葉を使うことを知り、その言葉の魔力を知った。
まだ名のない物に、名を定める。たとえば、草原にころがる大きな硬いものを、石と名づける。
その瞬間から、その物体、石は、人類の言葉に従う運命を持った。人類は“石”に“動く”ことを言葉を通じて命じることができていたのだ。
だが、それらは無意識下で行われていたことにすぎず、現代の人間が呼吸を意識しないように、かつての人類はそれらの力が存在することを自覚しなかった。
故に、時代をすぎるにつれて、物につけた名称は伝えられたが、そのものを言葉によって“動かす”方法は、失われていったのだ。
親が、生まれてきた子供に言葉を教えなくても、子供は言葉を覚え、そしておおよその意味を覚える。
学校で、やがてその言葉を使っていろいろなことについて学ぶ。
そうやって科学や歴史は伝えられたが、息の仕方を教える親がいないのと同じように、言葉の魔力を使う方法を、わざわざ教えることはなかったのだ。
そして、それらの特殊な力を持つ人間は、やがて“聖者”、“仙人”、“魔法使い”などと呼ばれ、数が少なくなったが故に、奇異と蔑視の目で見られるようになっていった。
それらの人類は、科学が進むに連れて減少していき、持っているものもその力を隠し、やがて言葉とその力は分離した。
その力の存在を理解し、かつ言葉を通して発現できる人間を、現代では言霊師と呼ぶ。
沙理奈はそんな少数派の人間の一人であった。
そんな少数派の人間が身を寄せる機構、表社会からは完全に封印され、その存在は露見されることなく、しかし延々と続いている団体。
それが、沙理奈が現在所属している、「協会」なのであった。
協会は主に3つの仕事をしている。
一つは少数派の人間、言霊師の管理。
この理由は二つある。一つ目は、少数派の人間がその力を利用した犯罪を犯さないようにすること、また、そんな事態が起こったときに表社会に知られない内に処理すること。
そのために、協会は国連や、各国のTOPとはつながっている。これは第2次大戦以降のことだ。2次大戦のドイツのヒトラーなど、管理外の言霊師が起こしたことが大きすぎたためだ。
2つ目の理由は、その力を持つ人間が、たとえば中世のヨーロッパの魔女狩りがいい例だが、迫害されるのを防ぐこと。
その理由でも、協会は国連と協議し、互いに不可侵かつ友好の関係を築いている。
その関係が崩れたとき、恐らく世界に戦争がもたらされる。
そして、日常の場面でもそんな迫害はありえるのだ。
大人はまだしも、子供となれば、その力を隠すことをしらない。それ故に、いじめをされる。
そんなことは協会が確認していないだけで、世界中で恐らく起きている。
それが確認されるのは、ほとんど手遅れになったときだけだ。
手遅れ、そう、手遅れ。
日本支部の所長室のデスクに座っている慶輔は、ここ半年の間なかった頭痛に頭を悩ませていた。
それというのも、戎璽が本部に帰ると言い出し、しかも置き土産に言霊師ではないとはいえ、戦闘員を2人置いていったためだ。
いや、そんなことは数分で片がつく。それよりも、戎璽はむしろいい効果をもたらしてくれた。
日本支部の能率が上がったのもその効果の一つである。
慶輔の頭痛の原因は別の場所であった。
結局、夏の間に沙理奈の居場所を確認したものの、それを本部には報告していない。戎璽は別に止めもしなかったのに、だ。
その事実が、慶輔自身を困惑させていたのである。
そのこんがらがった思考をほつれさせようと、こうしてたまの休みに所長室でくつろいでいるわけだ。
窓がないことを、もう慣れたとはいえ、今日の天気を思うといささかうらみたくなる慶輔。
その思考が、いつの間にか自分と沙理奈、戎璽、そしてあの優男へ、自らの過去へと向かっていったのである。
手遅れ、そう、手遅れ。
5年前の事件も、その手遅れから発生した事態だった。
その事件が起こったのは、今現在沙理奈たちが居を構えている港市。実際に一度行ったこともある、平凡な都市だった。
いまだに原因たる言霊師が確認されていないことから、事件の被害者として死亡しているものと片付けられている、事件。
たしか、表向きはこうである。『小学生に突然襲い掛かった魔の手!無差別殺人の恐怖』。
事件の概要としては、ある夕方に、市内のある公園で小学生数人の死体が見つかる。そしてその後、あるマンションで続々と死者が見つかるという事態に発展、警察は無差別猟奇殺人と判断、捜査に乗り出すも、死体の不可解な点につまずく。
すべてに外傷がほとんどなく、窒息死のような状態で発見されたにもかかわらず、あざとなるようなものが発見されていない、ということ。
一時は何かの有害物質やウイルス説も飛び交ったが、警察が誤認を認め、絞殺の痕があったと発表、犯人不明のまま、1年が経過。
やがて、一人の男が自主し、裁判の結果死刑を宣告され、そのまま2年前にすべて解決となった事件。
言うまでもなく、誤認は協会からの協力要請によりなされたことであり、自主した男は協会で同様の(もっと小規模だったが死刑には変わりない罪だった)犯罪を犯して禁固されていた男を、言霊で支配して犯人に仕立て上げたのである。
協会自身が定めた法律を、協会が破ることで言霊の存在の露見を防いだ、この世紀では最大の事件だと騒がれている。
その事件で、今は沙理奈と共に港市、故郷に戻っている津田隼が協会からの離反を決意し、完全に本部の、それも上層だけが知り、痕跡を完全にもみ消した脱走劇が始まったわけである。
そして、慶輔にとって、沙理奈にとって、あの優男にとって、その事件によっておこった手遅れは、今も失われたままの状態。
そこで慶輔は、角砂糖を先程からブラックコーヒーに入れる作業を反復していたことに気付く。
…これもいわゆる一つの手遅れ。
諦めて、しかし捨てるのがもったいないので、飲む。
甘い。
この世の何より、甘い。
慶輔にとって、コーヒーは苦いからコーヒーなのだという慶輔にとって、思いつきとはいえ、砂糖を入れようとした行為のその結果は、生涯の恥になりえるものであった。
雨音の記憶 中編 に続く
言霊へモドル