−雨音の記憶 中編−
協会が行う仕事の三つ目。
沙理奈は初めての実戦で、震える体を鼓舞するためにそれを暗唱する。
人間に害をなす、言禍霊、あるいはそれにじゅんずる言霊的存在の制圧あるいは撃破。
この任務は、3つの任務の内では最も危険であり、そして最も多く、大変な仕事だ。
各国政府、または協会からの捜査から出てくるその需要に対して、任務を行うための戦士――供給が足りない。
だからこそ、沙理奈のような子供であろうと、言霊師たる存在は戦場に駆り出される。
今回の任務は戎璽によって伝えられたものだった。
任務内容は、アルプス山地にその存在を隠して生活する言霊に関係する種族のところへゆくこと。
本来ならば、格付け的にランクV以上の言霊師が、しかも最低4人は必要であると認識されている任務。
それに、ランクUになりたての沙理奈と、実力はそれ以上としても、現段階で同じくランクUの慶輔が参加するのはいささかどころか、大いに管理部の決定に疑念を抱かざるを得ない。
もう一人の言霊師の存在を知らなければ、だが。
その人物がいたからこそ、管理部もこの無茶とも無謀とも無理とも、どうとでもいえるような言霊師の組み合わせでの出撃を許可したのだ。
冬の任務だったから、防寒着を幾重にも重ねてきている沙理奈だが、それでも寒さを感じずにはいられない。
すぐ前には、沙理奈よりも薄着で、しかし寒さをまったく意に介していないような慶輔が、既に掻き分けられた雪の道を進む。
最も前を進む人影が立ち止まる。連鎖的に慶輔と沙理奈も立ち止まる。
手袋に息を吹きかける沙理奈を見て、慶輔は馬鹿にしたように笑う。
「なんだ、言霊を使っていないのか」
その言葉も反応できないほど、沙理奈は憔悴していた。
戎璽は軽く息をつく。彼も沙理奈ほどではないが、厚手の服と、マントを着用していた。
そして沙理奈に向かう。
しゃ
「“気よ、冷気を遮せ”」
沙理奈の周りの空気に言霊がかかり、吹雪く雪を遮断する。ようやく沙理奈の表情が少しばかり楽になった。
慶輔は続けて嘲弄する。
「気付かないでこの山を登ってきたとはな。呆れてものもいえないな、お前の馬鹿さには」
沙理奈はそれに眉をひそめるも、反論は生まれてこない。
流石に慶輔もそれ以上は何も言わず、軽く「フン」と言い捨て、戎璽に先行して道を作り始める。
「…遅れるなよ。助けるのは面倒だからな」
沙理奈のそばに来ていた戎璽は、苦笑しながらまだ発展途上の少女の肩に手をかける。
「…力を温存したい気持ちもわかる。初めての実戦だからな。それにお主は慎重だからの」
固い顔になる沙理奈に、しかし戎璽は優しく声をかける。
「間違ったやり方ではない。確かに、今回の任務は主らを連れてくるのは少々速すぎたシロモノやも試練からの。警戒は必要じゃ」
肩にあった戎璽の大きな手が沙理奈の頭に添えられ、そのまま軽くなでられる。
年老いているとはいえ、協会で5指にはいる戎璽の体はまだ沙理奈の1・5倍はあり、その手は頭をつかめるほどあった。
沙理奈の体が、だんだんと温まってくる。
「だが、なぁに。わしがついておる。お主等は必ず守るからの。安心せよ」
沙理奈は凍えた、しかしだんだんと感覚の戻ってきた唇で言葉をつむぐ。
「……ぁ…い……」
戎璽は沙理奈の表情を見て、あわせるかのようにニッコリと笑った。
「なれば、まずは死なないようにはせんとな。わしでも死人は守れんぞ」
冗談を混ぜた戎璽の言葉。沙理奈はてらいを含めた表情を浮かべる。
「さて、あやつにおいていかれてしまうか。急ぐぞ」
「はい」
今度はちゃんとした言葉が口腔から出てきた。沙理奈はだんだんと温まる体を慶輔の作った雪の道に進め始めた。
そこにあったのは、果たして町と呼べるものか。
人間が春だろうと夏だろうと秋だろうと冬だろうと、晴れていようと曇っていようと雨が降っていようと、決して訪れることがない、訪れ得ない其処にあったものは。
言霊で幾重にも防護を重ね、外界から発見される可能性を極限のさらに極みにまで減らしているその空間内にある其処にあったものは。
数日前に協会に連絡があり、沙理奈たちが派遣され、1週間もたたぬうちに足を踏み入れた其処にあったものは。
赤、紅、朱。
肉、肉、肉。
形あったもの、意思あったもの、生あったもの。
それらすべてが、
動かぬ骸、生ならざる死の存在、形を持たぬ肉の塊として、其処に存在していた。
あるものは、四肢が吹き飛び、達磨にされた体で絶望の旋律をかなで、
あるものは、腹に開いた大穴を見つめるように首を直角に曲げて死のテンポを刻み、
あるものは、胸から突き出された、他者の手を握り締めるように破滅の調べを鳴らし、
あるものは、顔なきその肉体で、吹き飛んだ右腕を掲げて死のタクトをふるう。
凄惨な、生散な、静賛な、醒讃な。
鮮烈な、戦列な、賎劣な、閃裂な。
それでいて、
なにかひきつけてやまないものを隠し持った光景。
沙理奈は慄然としていた。
おののいていた。
恐怖していた。
畏怖していた。
恐れていた。
絶望していた。
戦慄していた。
死という現実が、想像にして空想にして過去の偶像という曖昧なイメージとしてでなく、質量を伴った圧倒的存在感を、沙理奈の中に占めていた。
それだというのに。
その恐怖があるというのに。
沙理奈は、死を受け入れた。
純然たるものとして、超然的に受け入れた。
それは、確実なる変化だった。
実戦に出たものが受け入れなければならない、必然的変質だった。
沙理奈からおよそ5メートルほど離れた地点で、慶輔が肉塊を調べている。
こちらは沙理奈と違い、死に恐怖していない。
既に死に出会ったからであろうか。
既に死と向き合ったからであろうか。
「……戎璽様、どうなんです?コレには言霊による傷もあります」
慶輔が顔をあげて二人のほぼ中心点であごひげを触っていた戎璽に問いかける。
ビジョン
沙理奈は死体から無理に目を放し、戎璽のほうを見る。頭の中に浮かび上がる象を振り払う。
リアル
過去の虚像を。過去に出会い、向き合わなかった死の現実を。
結界の中の、雪が止んだその町で、戎璽はゆっくりと口を開く。
「痕跡からして…言禍霊、それに、純粋に死因が言霊――滅びの言霊か、そこいらの言霊によるものもおるな」
滅びの言霊、その言葉に慶輔と沙理奈は僅かに反応する。
ほし しるし
言霊師としての絶対の禁忌。この地球の摂理を無視した反摂者たる烙印。
そして、力なきものに死を与える諸刃の刃。
戎璽はさらに続ける。
「死体の状況からなると、死後恐らく4〜5日のものが殆ど。あくまで雪による腐敗の遅れなどを考えずに、じゃがな。つまり――」
その言葉を、言わんとすることを、沙理奈が引き取る。
「協会に連絡が入ったときには既に、全滅、あるいは交戦していた…」
「そうなるの」
慶輔が表情をやや険のあるものにかえる。それは惨状に対する怒りというよりも、対抗心と評するほうがふさわしいものであったが。
「冷静に考えれば、誰でもわかることだな。だいたい、連絡自体が無言の、とてつもなく怪しいものだったろう」
「だからこそ、わしらがこうしてここにいるのだよ、慶輔」
戎璽の言葉の裏に秘められた自重の意思を受け取ったのか、慶輔は口をつぐんだ。
不満げな表情は、沙理奈に向けたままだったが。
戎璽は普段どおりの顔で、この状況がなんら切迫していないかのようだった。
その表情がかすかにゆがむ。
「…生存者がいるようじゃな」
慶輔と、沙理奈は同時に戎璽に顔を向ける。
行動は沙理奈のほうが速かった。
元来、性質的に沙理奈は感知系に優れている。ゆえに、言霊によって生あるものの反応を探る。
10メートル、20メートル、30メートル………距離をだんだんと、しかし急速に伸ばす。
そして――――
「!――お、おい沙理奈!どこに――」
怒鳴る慶輔を無視してひたすらに反応したところに叫ぶ。そんな沙理奈だったから、慶輔の声に意外にも戸惑いと心配の成分が含まれていたことには気付かなかった。
えぐられた大地を一足飛びに越える。焼け落ちた家屋を乗り越える。屍骸の山を、けれど目をそらさずに抜ける。
その先。まだ原型を留めている家の中から、その反応は現れていた。
ドアに体当たりをする沙理奈。抵抗がまったくない扉に、勢いあまって床に倒れ伏す。
「きゃっ……!」
「あぅっ……!」
肩口から倒れ伏す沙理奈。しかし床の硬い感触はしなかった。
それよりも、多少暖かく、そしてわずかにやわらかい感触。
悲鳴がもう一つあったということを思い出して、符号がそろった沙理奈はすぐに飛び起きる。
背後では追いついた慶輔と、その後ろから来る戎璽がいた。慶輔の顔にはありありと警戒の意思が浮かんでいる。
下を向いた沙理奈が見たのは、半裸の少年――いや、この町の屍骸たちがそうであるように、その少年の身体にも、それはあった。
胸から腹にかけて描かれた、否、刻みつけられた文様。しかし沙理奈の記憶によれば、それは痛みを伴わない儀式であるはず。
わき腹を通じて、背中まで続いているのであろう、その文様。自らの中に潜むものを押さえ込むために彫られた紋章。
彼ら、この町に住む、人間たり得ず、生霊でも、言禍霊にも属さぬ種族が一。
雪人間(スノウマン)の少年が、しかし確たる暖かさを持ってそこに倒れ伏していた。
沙理奈はその少年の美貌に、紋章の荘厳さに、光るような白い肌に、見惚れていた。
気絶していたのであろう、少年が、ゆっくりと目を開く。そして目の前にあった沙理奈と目が合う。
刹那、沙理奈と少年は同時に、まったく逆の方向に体を引いた。
そして、沙理奈が、少年がそうしたことで、お互いに、互いを危険だと思わせてしまった。
不自然な緊張。無防備なはずの少年は、同じく無防備なはずの沙理奈たちに、しかし警戒をやめない。
「さてさて、沙理奈。お主いきなりそんなに引いては、相手に悪印象を与えるだけじゃぞ?男相手にするのは感心できぬな」
「なっ……!戎璽様!何を――」
そんな沙理奈の口を、戎璽の大きな手が塞ぐ。
沙理奈は恨みがましい目で戎璽を向く。隣では慶輔が、なぜかわずかに険悪な表情を浮かべ、やはり戎璽を見ていた。
ワケがわからない。慶輔が戎璽を険悪な目で見る理由って――プライドが傷つけられたから?
沙理奈には理由がわからなかった。ゆえに、慶輔がちらりと沙理奈のほうを向いたのにも気付かなかった。
そうした沙理奈と慶輔は見てみぬふりをし、戎璽は少年に向かい合う。
「ぬぅ、久しぶりに訪れたが、こんなことになっているとは思わなんだ。主、確かツェルゲイ=フィファフィットの息子よな?」
少年がビクリ、と体を震わせる。戎璽の言った名に反応したのは間違いない。沙理奈と慶輔も少年のほうに意識を向ける。
「懐かしいの……主はおぼえておらぬか。確か10年前だったから、おぬしが4つの時か」
そりゃ覚えてないって。沙理奈と慶輔は気付かずに同じ思考をする。
しかし、目の前の少年は急激な変化を起こす。
「ぁ……あ…ああ…」
引いていた体が止まり、表情も警戒から疑問のそれに変わる。
「…じゅー、じ…さ……?」
戎璽は笑みで頷く。
少年の表情が安らかなものにかわり、そして、床に倒れ伏した。
「――――――!」
沙理奈があわてて少年のそばに駆け寄る。そして倒れた少年を躊躇することなく抱き上げる。
「心配することはない。安心したから、緊張の糸が切れたんじゃろう」
まさにその通り、少年は寝息を立てていた。
その寝ている顔を見ていた沙理奈は、ふと、我知らず頭が暖かくなってきたのを感じた。
その感情が何であるかを知ることになるのは、もっとずっと、後のことであるが。
味気のない電子音が断続的に鳴り続ける。
沙理奈のまだ覚醒しきっていない意識では、睡眠欲と理性が激闘を繰り広げていた。
しかし、ベットの中、任務から帰ってきたばかりのための肉体の疲労、さらに今日が特別休暇という条件を組み合わせると、どうしても理性の分が悪くなってしまう。
とりあえず、鳴り止まない目覚まし時計のスイッチを切ることにした沙理奈は、右手を枕元に伸ばす。
その右手が時計のあちこちを探るが、一向にスイッチが見あたらない。
そういえば、わたしたちが任務で出かけている間に、この部屋の目覚まし時計は試験的に言霊でしか止められないようにされていたんだっけ。
技術研に言わせると、「科学技術に言霊を応用する実験」だとか何とか言ってきていた。
それで、実際には使い道がないようなこんな時計が沙理奈の部屋に置かれてしまったわけだ。
いや待て、それだけじゃなかったような……
わたしが朝に弱いのが原因なんだっけ?戎璽様が特注したとか言ってた気が…
とにかく、頭に響く電子音を止めることにする。確か、止めるための言霊は…
「…“鳴り止め”」
途端に鳴り止む電子音。
何でも、ある特定の言霊に反応するような術式が描かれた言霊符を内部に組み込んで、それが起動することによってスイッチの働きをするとか何とか。
ともかく、五月蝿い音は消えたわけだし、もう一度寝……
ちゃ駄目だった!
沙理奈はあわてて体を起こす。現在時刻を一応確認すると、目覚まし時計のなった時間を少しすぎて8時3分。
今日の午前2時半に寝た沙理奈にとっては寝たりないのではあるが、仕方がない。
なぜなら、戎璽に呼び出されているからだ。
沙理奈や慶輔、戎璽に指導をしてもらっている人間にとって、戎璽のいうことは絶対である。特に時間に関しては。
前一度遅刻をした人間を見たコトがあるが、そいつは確か2日間飯抜きだった気がする。
それでもまだ軽いほうらしい。
寝巻きから着替え、特に持っていくものもないので、手ぶらで戎璽のところへ向かう。
朝ごはんを食べている余裕はないし、沙理奈にとって今は食事を取りたい気分でもなかったので、食堂はスルーする。
向かう先は、いつも使うような訓練所ではなく、どちらかといえば実験室に近い場所。
沙理奈は20分近くかけて、地下17階特別管理棟ランクA施設言霊特殊事例研究部隔離区域第6研究室に到着した。
ここは、ランクUの人間はどうやっても入れないような超特別施設であるのだが、今回は戎璽の手によって進入を許可されている。
研究施設がほとんどの地下施設の中で、特に危険な部門――言禍霊の研究や、今回の事例のように、言霊関連の生物の研究を行う場所が言霊特殊事例研究部隔離区域だ。
人知れずため息をつく沙理奈。協会の決定で、また危害を一切加えないということを義務付けられているとはいえ、あの少年をここに入れるのは忍びない、と沙理奈は思うのだ。
彼はむしろ被害者であり、だったら保護施設のほうに回すべきでは、と昨晩戎璽に進言したのだが、
う え
「確かに彼は危険ではないと思うが、証明ができぬのだ。上層部を納得させるにはこうせざるを得ぬ」
と、逆に説得されてしまった。
ともかく、今日呼び出されているのは少年との面会のためだ。
昨日同じ場所にいた慶輔は、
「俺は遠慮しておく。そいつと会う必要性が見当たらない」
不機嫌そうに、そう言った。
だから、今日はこれまで入ったことがない場所に、初めて一人で入った。
かつて、入居した当時は戎璽が付き添ってくれ、同じ区域に住む慶輔と知り合ってからは、慶輔がいやいやながらだろうが案内してくれた。
そのために、沙理奈は不安だった。
ましてや、通常なら立ち入ることどころか近づくことすら許されないような施設に行くのだから。
しかし、意外にも障害は多くはなかった。
やはり戎璽の力あってか、沙理奈の姿を確認した管理員たちはすぐさま扉を開放してくれた。
その様子に、やはりよそよそしさというか、あせりというか、そういったものがあることを、沙理奈は理解していた。
それも仕方がない。
戎璽はこの協会の最高権力である七星評議会の一つを占め、さらにはそのほか多くの場所でも権威を誇る。
本人はそのことをどうとも思っていない、というのは少し違って、せいぜい利用できるもの、つまり生活の中での便利品となんら遜色のない物として考えているのだ。
権力にこだわりはないが、利用はするという戎璽の姿勢は、まだ少女である沙理奈にとっては前者は快く、後者は多少反感がわくものではあった。後年ではその考え方が多少なり染み付いてしまうのだが。
ともかく、目的の研究室にはたどり着いたのだ。沙理奈は深呼吸を一つして、研究室の扉に自分のカードキーを差し込む。
電子音が発せられ、扉が開く。その中は、真っ白だった。
研究室は主に白主体の構成であり、そのことには違和感など湧くはずもないのだが、この部屋は白すぎた。
壁も白、電子部品もほとんど白、ベットもカバーも白。
そしてベットの上で上半身を起こしている少年の、肌も髪も白だった。
唯一、その中で色を持っているように思える戎璽が、入り口で固まっている沙理奈に声をかける。
「噂をすれば、じゃな。沙理奈、なにをしておる。早く入って来るがよい」
その言葉で我に返った沙理奈は、あわてて室内に足を踏み入れる。背後で扉が閉まる音が聞こえた。
「さて、わかるじゃろう?先ほど話していた沙理奈じゃよ」
言われるまでもなく、少年はこちらに気付いて話しかけていた。
「ええと……こうして話すのは初めてですよね。昨日まではどうもありがとうございました、沙理奈さん」
予想外の少年の言葉に、沙理奈は思わず顔が赤くなるのを感じた。
昨日まで、あの壊滅した町から協会の本部に戻るまで、少年はほとんど一言もしゃべらなかったのだから、そのギャップに驚くのも無理はない。
「あ、ええ、あの、べ、別に気にしないで。それより、大丈夫なの?」
あまりにあわててしまって、言う内容をよく考えなかった、そのことに沙理奈は後悔した。
いくらなんでも、あの惨状からすれば家族、友人、隣人、親しい人、そんな人たちをみんな失ってしまった。その悲しみが3日やそこらで消えるはずはないのに。
しかし、少年は優しい笑顔で返答する。
「ええ、大丈夫です。もともと、頑丈ですから」
少年の体は明らかに細く、慶輔のそれと比べると丸太と枝ぐらいに違うように見えるのに。やはり雪人間だからだろうか。
それでも、沙理奈はやはり少年が無理をしているのではないか、と不安になった。
同時に、少年に対して、いわゆるいたわりの気持ち以外の感情が芽生えているのも確かだった。
少年の笑顔は、沙理奈たちと同じような少年少女が浮かべるようなものではなく、もっと、聖人君子のような笑顔だった。
それだけでなく、どことなく持っている雰囲気が違うように感じられた。無愛想で笑顔一つ浮かべないような慶輔と長く共にいるからだろうか。
それを、沙理奈は慶輔に抱いているものと同じだと解釈した。
すなわち、友人に対する気持ち。
学校であまり皆と親しいとは言えない沙理奈は、友達もそんなにいなかった。
幼いころから孤独で、それにも慣れているといえばなれている。が、年頃の少女として、やはり寂しいものがあった。
少ない友達の慶輔は、なんというか憎まれ口が口癖のようなので、それはそれで楽しいのだが、もっと普通に話すことができる友人が欲しかったのだ。
沙理奈は暖かい気持ちで少年と話す。
「そういえば、名前は?」
「タクゥ=スギムラ=フィファフィットといいます」
「へー、タクゥかぁ…」
「でも、今日からは違う名前ですよ」
キョトンとする沙理奈に、戎璽が補足で説明する。
「もともと、タークィアルは普通の人と雪人間のハーフでな、姓に日本の名字が入っているのもそのためだ。上層部のほうで、日本人として生活するのであれば、保護してもいいという決定が下ったのだ」
戎璽はまだ立ちっぱなしの沙理奈に椅子をすすめて、自らは立ち上がる。
「だから、彼は父のつけた名の前半と、母親の杉村実加の字をもらって、杉村拓実という名を名乗ることを決めた。そういうことじゃよ」
戎璽は座った沙理奈の肩を叩いて笑顔を浮かべる。
「彼は明後日から4階の、第63居住区に住むことになる。お主や慶輔と同じ地区じゃ」
それだけいうと、戎璽はドアに向かう。
呼び止めようとする沙理奈に、振り返って、
「ああ、主は今日は特別休暇が下りておるよな?拓実にこの協会のことをいろいろと教えてやるがよい」
とだけ言うと、有無を言わさず立ち去ってしまった。
後に残されて、しばし固まる二人。後ろを向いている沙理奈は、妙な沈黙を意識してしまい、気まずさを感じてしまう。
「…不思議な方ですよね」
やや高めの少年の声が発せられる。振り向くと、細い目を、ドアのほうに向けたタクゥ、いや、拓実がいた。
「戎璽様のこと?」
「ええ。僕がまだ小さいころ、一度あったことがあるのですが、そのときもこんな感じでした。うまく言葉にはできないけれど…」
拓実の気持ちはよくわかった。沙理奈自身も、戎璽とは幼いころからの付き合いであるが、それでも戎璽のことを理解しきれてはいない。
「わたし、わかるよ。その気持ち。確かに戎璽様は不思議だから…」
再びの沈黙。今度は、沙理奈のほうから破った。
「拓実は、タクゥっていう名前、捨ててもいいの?」
虚をつかれたようになる拓実。沙理奈はさらに続ける。
「これまで、何年間もその名前で呼ばれてたんでしょ?」
「ええ、でも…いいんですよ」
拓実は笑顔を見せた。だけど、それはこれまでのものとは微妙に違った。
ほんの少し、苦さの混じった笑みだった。
「僕は、その、ハーフですから……親切にされていても、なんと言うか、よそよそしさが感じられたっていうか…」
沙理奈は、先ほどまでとは違う気まずさを感じることになった。
「それでも、みんなが大切な人たちだったことには変わりないですけど……いや、変な話しちゃいましたね。ともかく、僕は平気なんですから」
空元気でも、そう笑ってくれる拓実が、沙理奈にはとてもいい人に思えた。
「そういえば、拓実っていくつ?」
「13ですよ」
「ホント!?わたしよりもいっこ下だね」
「沙理奈さん14歳ですか。道理で…」
「な〜に?おばさんみたいに見える?」
「そ、そんなこといってませんよ!ただ大人びて見えるなぁって…」
「冗談だよ冗談。あははは」
「…はははは」
「それでさ〜………」
ドアの外では、戎璽が聞き耳を立てていた。
これなら安心だろう。
戎璽は安心したようなため息をついてドアからはなれる。
と、そこで影にいた人間に気付いた。
「気配を消すのが上手くなったの、慶輔」
相手の驚く気配、さらに無音で、しかし確実にその気配が去っていく感覚。
戎璽は困ったようにため息をつく。
慶輔は、自分の気持ちをはっきりと表に出すのが苦手な男だということは、既に戎璽にもわかっている。
それくらいの年は重ねている。
再び、ため息をつく。
タクゥ、今は拓実だが、彼はハーフで、しかもその力を封印する刻印をなされているから、雪人間の力はほとんど発揮されない。
だが、感情の暴走などで、そのタガが外れる可能性は十分にありえる。
あの壊滅した町に出かけたときも、あと少し遅ければあわや、というところだったかもしれない。
実際のところ、あそこで戎璽に会い、さらに警戒する慶輔を沙理奈がクッションとなったことで、ギリギリ拓実は暴走せずに協会にたどり着いたのだ。
上層部も、それを心配していた。だからこそ、戎璽の意見もなかなか通らなかったのである。
「盗み聞きとは、戎璽さんもなかなかいい趣味してるじゃない」
気配は感じていたが、先手を取られた。
戎璽は振り返ってその人物に話しかける。
「わしとて若かりしころは仲の二人のようなことはよくしとったよ」
「友達と話す程度なら普通人ならやるっしょ。あたしが老獪なジイサンのアンタに期待したのはもっと骨のある答えなんだけどなぁ…気ぃそがれちった」
ぽりぽりと頭をかくのは、まだしわも刻まれていない、若さをたたえた顔。
10代後半の、成人もしていない女性だった。
「…礼を言っておく。昨日はすまなかったな」
「なに言ってんだか。あたしゃ親父の代理で出ただけだっつの」
腰に手を当てて笑う女。
にいづきそうろう
現在の七星評議会の一角たる、新月蒼籠が娘、現在の世界の言霊師の10代ランクでは最強とも言われる少女。
にいづきるな
新月瑠奈に、戎璽は薄い笑いを返す。
「それでも、主がおらなければとおらなんだ、わしの意見はな。感謝しておるのだぞ」
「気っ持ちわりぃなぁ、さっきから言ってるだろ。親父の意思の代弁だっつの。感謝なら親父にしやがれ」
この言葉遣いが女らしからぬ少女は、しかし昨日の評議会では、戎璽の意見を弁護し、3倍近くの年を食っている評議員や、若手の新星とも言われる評議員を黙らせたのだ。
「…それで、わしを笑いに来たのかの?」
「まっさか。アンタにギャグのセンスなんか期待してねぇよ、師匠」
「元、であろう」
「元だろうがRPGとかでは師匠って言うぜ。これぁもう代名詞だから、気にすんな」
そこで瑠奈の表情が変わる。
「あの馬鹿の足取りはつかめねぇんだが、調査団によるとあの村、スノウウィンドウの惨事は明らかに言霊師がかかわってる。サンプルを持って帰るらしいから、今日にも解析できるけど、遠距離報告でもわかる。十中八九、まず間違いなく奴だ」
戎璽もまた沈黙する。
「…あの馬鹿弟子めが」
それだけの言葉だったが、瑠奈には戎璽の秘められた怒り、苦しみ、悲しみ、苦悩が十分以上に理解できた。
18になったばかりの瑠奈がそこまで理解できるのも、戎璽と付き合った年数が長いからだ。
「…まぁ、きっと見つけ出してやるよ。大事にならねぇうちにな」
「気をつけるのだぞ。奴はもともとお主よりも実力的には上だ。その上で反摂者ともなれば…」
「いちいちうるっせぇな、これだからじいさんは。わかってるよ」
そして瑠奈は去ろうとする。
戎璽はそれを止めた。
「待て瑠奈」
「ぁあん?」
不機嫌そうに振り返る瑠奈。
戎璽はその視線を受け止め、それでもその言葉を口にする。
「…深月のほう、どうなっている?」
沈黙。
それも一瞬のこと。
「…見つかってねぇ。いくら分家のアタシでも、難しいんだよ」
それが、その瑠奈の態度が。
戎璽にすべて物語った。
「……接触したか」
あたりに人間が誰もいないことを確認し、しかも録音機、カメラなどが皆無であることを確認してからの、極小の声での発言。
瑠奈は、あくまで平静だった。けれど、戎璽の瞳に見据えられ、観念したようにため息をつく。
「…ぁあ。従姉妹さんは、分家のことについて知ってたけど、言霊の反応は薄かった」
そのままため息を交えつつ、18歳の少女らしからぬ雰囲気で、懐かしむような雰囲気で、話し続ける瑠奈。
「あたしとは10歳近く違って、子供が二人いたよ。その子供にも反応はなかった。うちらと違って、血が薄まってるんだよ」
「………」
「けど、分家や、月読家のことについてはしっかりと知ってたんだから、一応は“鍵”たる一族ってとこかな」
「そうか……」
「……なんだよ、あたしの顔になんかついてんのか?」
「……いや、なんでもない。引き続き任務を頼む。深月については外れてくれてよい」
「………………わかった」
「あちらに力がないのであれば、奴もそうそうは見つけられぬだろう。なれば、後は他のものたちが他の力を持つ、言具に目覚めし一族を見つけ、保護するのを待てばよい」
「…奴の狙いは、何なのかな…」
「“鍵”たる一族を狙っているのは間違いない。既に2つは奴の手の内だ。こちらも必死になって残りを調査しとるから、がんばってくれ」
「わーってるよ。じゃあ」
瑠奈は、その言葉と共に去った。
後に残された戎璽をさいなむのは、怒りか、悲しみか。
雨音の記憶 後編 に続く
言霊へモドル