−雨音の記憶 前編−




学校で、沙理奈はよく笑うようになった。

それは、必然的に周囲の環境を変化させる。

友人が、増え始めた。

もともと戎璽のもとにいることで、ある種の隔絶を感じさせていた沙理奈には、好んで話しかけるものは少なく、それによって親しい友というものはいないに等しかった。

それが、ある一週間――戎璽の関係の任務で、特別休暇を得ていた期間で、表裏をひっくり返すような変化が起こったのだ。

いや、むしろ本来の性格から、枷が外れただけかもしれない――そう、沙理奈の隣人であり、彼女が通う、協会内部にある唯一の学校で新任の教師見習いをしている、谷口英緒は思っていた。

奇しくも、その実習に沙理奈のクラスが選ばれて、谷口はその理由に行き当たる。

休み時間にふと覗いた教室の中で、沙理奈がこれまでには見せたことのないような笑顔で、心から楽しげに語る姿が見えた。

その相手は、少し前、沙理奈が変わり始めたのとほぼ同時期から谷口と暮らすことになった、杉村拓実だった。

谷口は、ただ上層から頼まれて一緒に暮らすことを決めたので、拓実についてはあまり情報は持っていなかった――少なくとも、同居し始めた頃は。

彼は、人よりも多少好奇心が強く、多少アブナイ橋を渡りたがる傾向にあり、多少悪友が多かった。その多少は、中枢から拓実の情報を引き出すのには十分すぎた。

杉村拓実――過去の経歴、日本人、杉村実加のもとに生まれ、幼少期に協会で保護、主に天由良戎璽(あまゆらじゅうじ)管理下で生活。

そして現在は谷口英緒のもとで生活、か。

少なくとも、戎璽が関わっていることから、機密に触れることだとは谷口にも容易に理解できた。だが、そこで止まる彼と悪友たちではなかった。

1週間後、諜報部の内部にまで出世していた悪友の一人から、ランクSの機密事項が、数人の悪友の手を通し、出所をくらまして、谷口の元に届いた。

彼が雪人間の生き残り、しかも杉村実加から生まれたハーフで、彼以外の、彼の故郷の町に住んでいた雪人間が全滅しているコトを知っても、谷口の心には驚愕はさして生まれなかった。

もう慣れてしまっている。言霊の世界には。

それを知ったのは2週間ほど前。拓実は谷口が拓実の正体を知っているとは思ってもいないだろう。

それに――既に谷口の中では、拓実は年の離れた弟のようなものだった。

だから、それが雪人間だろうがなんだろうが、関係ない。

とにかく、拓実はラッキーだ。

この上なく、幸運なほうだ。

なぜなら、基本的に協会の方針として、人間ではない言霊的生物は、その知能にかかわらず、一切の人権を認められないまま、実験材料にされることが殆どだからだ。

拓実とて例外ではないはず。それを、この方針を恐らく嫌っている戎璽が、雪人間のサンプルは死体があれば十分だとか何とかいって無理矢理押さえ込んだのだろう。

それ以外にも、もしかしたら意味があるかもしれないが――

それを考えても意味はない。

けれど、所詮は人間外の存在である拓実を、協会はいつまで黙って見守るだろう。

いや、いつまで我慢して手を出さないで置くだろう。

谷口は、胸中に何か小さな陰が生まれたのを感じた。



数年がたった。

沙理奈は戎璽の下で働くことになった。

任務は諜報。

慶輔も戎璽の下についたが、こちらは戦闘特務だった。

それ故に、沙理奈と慶輔が会う時間は、学生時代に比べると格段に減った。

たまに顔を合わせても、話す前に別れる程度のものだった。

少し、寂しかった。

拓実は戎璽の下には来なかった。

保護観察の名目で生活している以上、協会の運営に少しでも関わるような事態は避けなければならない、ということだった。

沙理奈は諜報で、故郷の日本に出かけた。天才といわれる、新月瑠奈とともに活動を行っていた。

既に一年が経過しようとしていた。

すべてを動かす、

すべてを狂わす、

偶然にして、必然の、

事件が起こった。



瑠奈からの連絡で向かった町、港市。

そこで、惨事は起こっていた。

被害者、老若男女問わず、50人前後。

原因は、滅びの言霊であることは、明らかだった。

それほどまでの濃さの、暴走した言霊の残り香。

「……これは……」

瑠奈と共に、事件発生直後の町を見下ろす。

沙理奈が到着したのは、事件終結から1時間もたたないころだった。

「…そんな…これほどの……一体…」

沙理奈は驚愕して目の前に広がる光景をただ見ることしかできない。

死体が、点在している。

叫びが、広がっている。

怒りが、憎しみが、悲しみが、残り香にさらされて暴走する。

それが眼下の光景。

瘴気、といってもいいかもしれないほどの、歪み。

思わず目をそらす。

「瑠奈さん、これ、とにかくこの濃密な言霊を散らさないと…」

瑠奈は厳しい表情で、見下ろしている。

唇を、強くかんでいた。

「…瑠奈さん?」

「沙理奈、アンタがやってくれ。それから、悪いけど協会との連絡とか、事後処理も」

「……え…?」

「アタシにゃ、ちっとばかし用ができちまった」

「え…!!っ…ちょ、瑠奈さん!?」

沙理奈がまともな反応を取る以前に、瑠奈はそこから飛び出していた。

20階建ての、ビルの屋上から。

「戎璽の野郎にはテキトーに言いつくろっといてくれ!――しばらく、結構長く消えるかもしれねぇ」

ビルから落下しながら、瑠奈は叫んだ。

沙理奈は、承諾せざるを得なかった。



事後処理にやってきたのは、慶輔を筆頭とする一団だった。どうやら沙理奈がいないうちに出世したらしい。

再会を懐かしむ余裕もなく、二人は深刻な面持ちで相談を始める。

「とにかく…市の一部区域を覆っていた言霊はわたしのほうでどうにかしたから、後は被害状況と報道管制とかなんだけど…」

「さらに深刻な事態があるんだよ」

「え?」

キョトンとする沙理奈に対して、慶輔は重いため息をつきながら沙理奈に向き直る。

「本来なら、俺が来る前に報道管制はされてるはずだ。警察や関係各所にも、な」

「…………」

「それがなされていないということが、どういうことを意味するか――この国の支部に、一部の特務隊を行かせた」

「……ま、さか…」

「そのまさかだ」

慶輔は顔をそらす。

「日本支部は壊滅していた。しかも――」

その顔は、複雑な表情をしていた。

「――痕跡から、つい先ほどだが、雪人間が関わっているらしい、との報告が出された」

その空間だけ、時間が停止した。



事後処理も草々に、沙理奈は協会本部へ帰還した。

真っ先に、かつて自分が居住していた第63居住区の、かつての自分の部屋の隣に向かう。

ドアを叩く。叩く。叩く。

叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く――

ガチャリ。

ドアが、開いた。

そこにいたのは、谷口だった。

「……久しぶりだなぁオイ」

あっけらかんとした口調の谷口に、沙理奈は焦燥に後押しされ、詰め寄る。

「拓実は!?あいつは、どこに――むぐ」

口をふさがれ、部屋の中に連れ込まれる。

部屋の中は、暗かった。

谷口が、片手を沙理奈の口に当てたままで、玄関口の壁にある何かを探る。

電気がついた。

「……これでいい」

ようやく開放された沙理奈は、息をついて、すぐさま同じ問いを繰り返そうとする。

「拓実のことで騒ぐな。周りに被害が出る」

それより先に、谷口から言葉がつむがれる。

「あいつは表向きは仕事に就くために居住区を移ったことになっている。だが、日本にいたお前はもうわかってるだろうが、上層が同じ雪人間のあいつをこれ以上甘やかすのをやめたというのが本当だ」

沙理奈は、予想していたことが事実だったことにさらに焦燥を感じた。

「だから騒ぐな。雪人間のことは、ただでさえ機密なんだ。お前がむやみやたらに騒いだ結果、ここらの地区の住民が、巻き込まれる結果になるぞ。ただこうして話すことすら危険なんだからな」

その言葉に、沙理奈は極限までの意志力を発揮して、理性で感情を制御する。

すぐに、疑問が浮かんできた。

「なら、何でここで話せるのよ、というか、何でアンタが拓実が雪人間だって…」

各部屋には、一般の人間には知らされていないが、高性能の盗聴器や隠しカメラ、熱源探知機など、いろいろなものが隠されているのだ。

「まぁ、そりゃあな。この部屋は俺が掌握してる。今隠しカメラに流れてんのは真っ暗闇で、盗聴器に流れるのは寝息。熱源探知機とかもいじらせてもらってる」

にやりと笑う谷口。沙理奈は驚いていた。

言霊を使えるのなら、機械をだますのは簡単だろう。けれど、この男は、言霊を使うことのできないこの男は、自らの力で、機械をだましているのだ。

驚異的だった。

「それに、拓実の正体については同居し始めたころに調べさせてもらったんだよ」

悪友に協力してもらってな、と谷口は苦笑いする。

その笑みが引き締まる。

「…その悪友にこれまた調べてもらったんだが、あいつは今地下牢獄だ。今戎璽さんが抵抗してるらしいが、七星評議会でも1対6だ。しかもまずいことに、その戎璽さんは近いうちに評議会を解任されかねない」

沙理奈は黙って聞くしかなかった。

驚きのあまり、思考能力が麻痺していた。

「そうなったら、拓実は、実験材料にされるどころか、処刑だろう。危険因子は切り捨てる。それが今の協会の方針だからな」

沙理奈は、下手をすると意識が吹き飛びそうなまでに混乱していた。

「で、だ」

谷口の言葉にも反応が鈍くなる。だが――

「お前、犯罪者になるつもりないか?」

「…は?」



沙理奈は第65居住区を進んでいた。

谷口に頼まれた、少年を探すために。

145、146、147…………153。

沙理奈はインターホンを鳴らす。

数秒して、顔色の悪い少年が現れた。

「……どちら様ですか?」

少年の顔色が悪い理由。それは、沙理奈が関わった、港市の事件に関係していた。

沙理奈は自分の内面を悟られないように、笑顔を浮かべて言った。

「津田、隼君?」

「そう、ですけど」

「ちょっと、付き合ってもらえる?」

沙理奈は少年の腕を取った。

華奢な、けれど力強い腕だった。



「いいな。12時までにここに来ていなければ、俺はお前たちを見捨てる。俺は隼を連れ出せないから、沙理奈、頼んだぞ」

「わかってる。じゃあ、隼はあたしが拓実を連れ出すまで脱出口で待機でいい?」

「いえ、僕も手伝いますよ。少なくとも、言霊を使えない人間よりは強いですし」

「でも……」

「成功率は高いほうがいいだろ。俺の仲間もサポートしてくれるらしいから。その、あれだ。あいつら協会のシステムと一回マジでやり合ってみたかったらしいし」

「……じゃあ、頼むわ」

「はい」



谷口から出された提案は、こういったものだ。

「俺は今回の日本の事件で、あちらに出張ることになった。そこで、だ。明日出立になる予定なんだが、そこで拓実を日本に運べないかと考えている。

やり方は至極簡単。俺はいったん協会の外に出る。そのあとすぐにレンタカーを借りて森の入り口まで戻ってくる。お前は地下から拓実を連れ出し、そこまで来ればいい。あとは俺が何とかする。

そう、それから津田隼って、俺が担任してる奴がいるんだが、そいつもどうやら肉親をなくしてるらしくてな、一緒に連れてきてくれ。

なに、相談はしてある。あいつにも覚悟はあるしな」

それを受けて、沙理奈と隼は地下に侵入していた。

どうやら谷口の悪友とやらの力は本物らしく、ビデオで見たスパイ映画並に順調に物事は進んでいる。

沙理奈がその感知能力で言霊の障壁を無効化させ、隼が見張りを昏倒させていく。

隼が“白き牙”と呼ばれる、最近の世代の実力者であることは谷口から聞かされていたが、その手並みの鮮やかさには舌を巻かざるを得ない。

そうこうするうちに地下にたどり着いた。

簡単すぎる気もしたが、それでも拓実の無事を確認するために、沙理奈は進んだ。

「沙理奈さん、あれ……」

ふとみると、隼が足を止めていた。

沙理奈も振り返る。隼が見ていたのは、牢獄の一つ。

否、それを牢獄と呼べるのだろうか。

そこにあったのは、何十もの檻の奥、鎖でがんじがらめにされ、部屋の中央に固定された何か。

それが、強力な言霊の波動を洩らしていた。

「…………」

思わずに立ち尽くす沙理奈だが、目的はあくまで拓実。それに時間も迫っている。

「行くわよ、隼」

「え、あ、はい」

数分後。

拓実は、そこにいた。

「…………っ!」

ただし、両腕を横に広げて固定され、十字架に似たものに打ち据えられていた。

鞭か何かで打たれたような跡もある。

沙理奈が動き出すよりも早く、隼が檻と鎖を砕いていた。

くぐもった金属音が鳴る。抱きとめた沙理奈の腕の中で、拓実が目を開ける。

「……な、何で…?」

拓実は心底驚いているらしかった。

「何で、はこっちの台詞よ!――“治癒せよ”」

拓実の体中の傷が癒えていく。

「何で、アンタがこんな目にあわなきゃならないのよ……」

「いや、それと沙理奈さんが来ることとは…」

「関係あるの!早く逃げるわよ!」

「あ、あの……」

「“黙って”」

強制的に拓実を黙らせ、身にまとうかつて服だったものを引っ張り、半ば以上引きずるようにして連れて行く沙理奈。

隼は既にそんな沙理奈に逆らってはいけないということを理解していた。

多少急ぎ足で来た道を戻り始めたとき。

先ほどの監獄、鎖でがんじがらめにされた何かが安置されていた場所に、人影があった。

「………!」

戎璽だった。

足が止まる。視線が交錯する。

数秒にも満たない、けれど永遠に匹敵する交錯。

動いたのは、戎璽だった。

「“いでよ、呂奉”」

戎璽がかざした右手の中に、方天戟が現れた。

言具。

沙理奈も、隼もその存在を知り、そして二人ともに使うことができる。

だが、戎璽を前にすると、二人がかりでも勝てる気はしなかった。

戎璽は、無常にもその方天戟を振り上げ――

檻を、鎖を、砕いた。

あっけにとられる3人に、戎璽は右手で、封じられていた「何か」をとった。

それを、沙理奈に投げる。

反射的に受け取る沙理奈に、戎璽は振り向きながら声をかけた。

「出て行くのであろう?別にわしは責めん。ただ一つ、それを持っていってくれ。罪は重くなるが――どうかな」

まるで、問いに対する答えがわかっているかのように。

沙理奈が断らないと、すでにわかっているかのように。

戎璽は背後を見せたまま、歩き始めた。

「そうそう、上がそろそろ気付き始めておる。谷口の仲間をかばってやらんといかぬから、わしは去る。お主らも早々に逃げるがよい」

戎璽はそう言い残すと、足早に立ち去っていった。

残された3人も、数テンポ遅れて走り出す。

警報が、鳴り始めた。



「…隼、大丈夫?」

沙理奈は走りながら傍らの少年に聞く。

「は、はい、今のところは…」

少年は多少あえぎながらも、懸命に答える。

無理もない。脱出時に警備兵を散らすのに、散々力を使ったのだ。走るのもやっとのはず。

騒ぎは協会全体に広がり、言霊師が出てくるのも時間の問題だった。

そう考えていた瞬間、背後に気配。振り向くと、隼が追いついていた追手の一人に体当たりをかまし、反動でこちらに跳ね飛んでくるところだった。

「追手か…」

沙理奈は唇を噛み、決心したようにポケットに手をつっこむ。

そして隼をつかんで、そのポケットに取り出した何かを入れた。

戎璽から渡された、「何か」を。

恐らく、かなりの力を持つであろうものを。

「沙理奈、さん?」

「それ持って、先に行きなさい!私たちは後で行くから。谷口にはそういっておいて!」

「待って、くだ、俺も、言具で――」

問答無用で隼を放り投げる。先には、谷口の車があった。

追いついていた追手には見られていない。谷口は状況を見て、すぐに発車させた。

沙理奈と拓実は、車から敵の目をそらすために反対方向へと逃げる。

「拓実、大丈夫?」

「沙理奈さんこそ」

拓実は、疲弊こそしていたものの、沙理奈と同等には元気だった。

実際、こうして再会するのは1年ぶり、いや、ゆっくりあうのは学生時代以来だから、実に3年ぶり。

拓実は、見違えるようだった。

胸が、こんなときですら、高まるようだった。

そんな時。

その時。

背後から、高速で近づく気配。

沙理奈たちを追い越して、そして前に立ちはだかったのは――

「……慶輔…」

剣をもった、慶輔だった。

沙理奈と時をほぼ同じくして、協会に帰還していたのだった。

敵意が、膨れ上がる。

「…沙理奈、戻れ。その異人種に洗脳されていたことにすれば、罪は軽くなる」

「…何、を……」

「そこの異人種を救う理由は、お前にはないだろう」

慶輔は、剣を拓実に突きつける。

その表情を、苦悩にゆがめる拓実。

沙理奈は一瞬の沈黙のあと、2人にそれぞれ宣言する。

「拓実、自分が犠牲になればあたしが助かるとか、思ってるわけじゃないわよね?」

2人の視線が、沙理奈に集中する。

「ふざけないでよ。これはアタシがやりたくてやってるんだからね。勘違いしないこと。それに、友達が殺されるのを、黙ってみているわけにはいかないでしょうが!」

沙理奈は慶輔を、本当に、生まれて始めて、冗談やそういったたぐいではなく、睨んだ。

慶輔は、一瞬狼狽したような表情を浮かべたが、すぐに厳しい表情に戻る。

「本当に、それだけなのか?」

慶輔の、質問とも取れない独り言は、しかし沙理奈たちには届かない声量だった。

「お願い。そこをどいて、慶輔」

沙理奈は一歩を踏み出す。

慶輔の顔が、一度うつむき、そしてあげられる。

その目は、どこか虚ろだった。

「仕方がないな――二人とも、力ずくで止めさせてもらおう」

沙理奈は、覚悟を決めたように、

けれど、どこかが激しく痛むかのように、緩慢な動きで。

慶輔は剣を構え、沙理奈は言具を呼び出し、そして――

二人の、力が衝突する臨界点。衝突の一点。そこに――

「でぁぁああああ!!」

「おぉらぁあああ!!」

影。

血。

鮮血。

拓実が、いた。

沙理奈の言具を逸らし、しかし慶輔の剣を背に受け、

それでも、沙理奈をかばうように、

鮮血。

くぐもった、悲鳴。

拓実のものではなく。

慟哭。

閃光。

目を覆う慶輔。

閃光に集まってきた追手が、慶輔の姿と、その体についた血を確認する。

「どうしたのですか?」

一人が聞いてくる。

慶輔は、

慶輔は――

「今の爆発で、二人とも消し飛んだよ」

剣を、落とした。

たとえようもない、憎しみと、やりきれない痛みに耐えかねて。



森の端。

降り始めた雨に、紅が混じる。

雨に濡れた、沙理奈の頬。

雨に濡れた、拓実の顔。

「な……なん、で……どうし、て」

虚ろな、どこまでも虚ろな沙理奈の目。

かすんだ、とてつもなくかすんだ、拓実の瞳。

「…二人、には、たた……かって、ほし、く、なかっ……」

鮮血。

沙理奈の言霊が木霊する。

治癒せよ、治癒せよ、治癒せよ。

けれど、紅は止まることなく。

拓実の瞳が、黒く、白く、

意思の光が、

光が――

「……ぃゃ、ぃや、いや、いやぁぁああああああ!!!!」

沙理奈は右手に持っていた言具を、握り締める。

拓実の頬に、手を添える。

どうしたらいいか、どうすればいいか、

沙理奈は、言具を拓実の胸に。

沙理奈は、顔を、拓実の顔に。

光。

木漏れ日のような、

淡い光。

言具は、消えた。

拓実の中に。

死は立ち退いた。

沙理奈の力と引き換えに。



「…………」

拓実は、身を起こした。

どうやら自分も夢を見ていたらしい。

確かにこの陽気では、仕方ないかもしれない。

そして、いまだベットに横たわる女性を、もう一度見つめる。

佐藤沙理奈。

拓実を助けるために、協会を敵に回し、挙句の果てにはその命を救うために言具をなげうった人。

人間を自動車にたとえれば、心臓はエンジンであり、生命力がガソリンだ。そして、言具は第2のエンジンともいえる。

つまり、生命力を、言霊の力を、拡大して発動するための機構。

それを、生命力が0となった人間に押し込めば、なるほど心臓の変わりになる。

違うのは、その人間を生かすための生命力の出所が、その人間本人ではないということだ。

つまり、沙理奈は2人分の生命力を毎日消費している。ひるがえせば、常人の半分の力で一日を過ごさなければならない。

拓実を助けるためとはいえ、あまりにも非効率的な選択。

あの時、

あの時拓実が二人の間に入っていなかったら――

そうしたら、あの二人のどちらかが死んでいたかもしれない。

それは、それは拓実にとっては耐えられないことだった。

沙理奈は勿論のこと、慶輔も、命の恩人には変わりない。それに――

それに、彼は沙理奈の大切な人の一人だから。

沙理奈は、優しい。

周りの誰にも、本当は優しいのだ。

ただ、慶輔とは違う意味で、表現の仕方が異なっている、つまり恥ずかしがりやなだけだ。

だから、と拓実は思う。だから自分は――

「ぅん〜〜……」

沙理奈が身をよじる。目がゆっくりと開かれる。

拓実は微笑む。

この人には、もう辛い思いをさせたくない。

そう、思った。




第6章 プロローグへ




言霊へモドル