六十五話「絶望の目覚め」
…なんで、生きてるんだろう。
意識が覚醒したとき俺が真っ先に考えたのは、そのことだった。
目を開けて、ただ何をするでもなく、天井を見上げながら、何となくそう思ってしまった。
いつか、同じ問いを自分にしたときがあった気がする。
けれど、思い出せるはずもなく。
俺が寝ていたのは、もちろんベッドではあったが、見慣れたそれは沙理奈事務所のものだった。
「…起きたか、馬鹿」
ベッドのそばには、瑠奈さんが本を読みながら座っていた。
…なんでいるんだよ。
「あたしがここにいる理由とか聞くなよ。聞いても教えてやんねーから」
じゃあ言うな。
そう考えてから、俺は体を動かそうとした。
動かせなかった。
まるで、体中に鎖がかけられたみたいに。
体中の感覚を研ぎ澄ませる。が、俺のからだの動きを抑えているのは布団だけ。
体が抑えられているのではなく、俺の体自体が動くことを欲していないのだ。
「…瑠奈さん、龍哉は――」
扉が開けられ部屋に明かりが入る。
いまが夜だということにようやく思い当たった。
「今起きたとこだ。まぁ大丈夫だろ。あたしが鍛えたんだからな」
瑠奈さんは本を片手で閉じ、入ってきた沙理奈に笑ってみせる。
沙理奈にはいつものような強気な表情はなく、どこか憔悴したような表情だった。
けれど、その顔には弱気など表れていない。あくまで、沙理奈その人の表情だった。
「…今日、何日ですか」
聞いたことのないようなかすれた声。沙理奈が目を見開く。
瑠奈さんは気にした様子もなく、質問した声の主である俺に日付を告げた。
まともな声が出せないこともそうだが、あの夜から2日が経っていることにも驚いた。
なんだか、今年に入って俺は大怪我ばかりをしている気がする。
夏休み明け、特に10月に入ってからは、五体満足で普通に日常生活を送れいたが、それも所詮長続きはしなかったらしい。
「…んまぁ起きたんだったらやることやってもらわねぇとな、龍哉」
瑠奈さんが俺を見る。
「2日前の夜、お前が血まみれで見つかったわけだが、一体何が起こったか全部話せ」
けれど、その視線はどこか憂いを含んでいた。
この部屋には、時計がない。
そして、沙理奈がそう作ったからだろうが、周りからの音がほとんど入らない。
やけに、静かだった。
部屋に響くのは、淡々と語る俺の、かすれた声だけ。
けれど、俺は喋っている実感がない。
俺の音声を録音したテープレコーダーが再生されているような、そんな気分だった。
瑠奈さんも、沙理奈も、俺の話を聞くだけで、決して遮ろうとはしない。
唐突に。
否、これまでも感じていたことが、表面化して。
死にたくなった。
紡ぐ言葉と裏腹に、俺の内面で渦巻くものは虚無。
蘇える記憶の凄惨さと引き換えに、俺にもたらされるのは静謐。
怒りも、憎しみも、悲しみもない。
喜びも、楽しさも、慈しみもない。
感情が抜け落ちた、人形の気持ち。
そんな気分だった。
やがて、テープレコーダーの音が途切れる。
部屋に残されたのは、俺の内面そのものの静謐。
瑠奈さんが、長い溜め息をついた。懐からタバコを取り出す。
遠慮せずに、俺の前で火をつけた。
初めて会ったときから持っていたライターを、内ポケットにしまう。
「沙理奈、悪いけどテレビ持ってきてくれ」
「え?――あ、はい」
扉が開けられ、また閉まる音。
それとほぼ時を同じくして、暗い部屋に明かりがともる。
「…とりあえず、あたしが何でこの町に来たか、について言っとくか」
瑠奈さんのタバコが、どこからか取り出された灰皿に添えられる。
「実はあたしはな……協会の工作員なのだ」
瑠奈さんが言う。
「驚け」
恣意的に無視。
気にも留めずない瑠奈さん。
「まぁお前をつれてアメリカ行ったあたりからは協会からは離れてたがな。つってもアメリカは暮らしやすいし、お前は手間かかるしで、いろいろと忙しかったっつーのもあったが…ってんなことどうでもいいか。何でこの町に戻ってきたか、だ」
普段のように口を挟む気力もなく、またそうしたいとも思えないいまの俺の前で、瑠奈さんは勝手に暴走を始める機関車並みに勝手に脱線していた。
「……あたしゃ、一人の男を追ってる」
急に。
体感温度が下がった気がした。
「そいつは、もと協会員で、ずば抜けた力を持っていた。性格も普通で、むしろいい奴だった」
過去を懐かしむような、そんな言葉。
けれど、それはその意味を成さない。
瑠奈さんの言葉に隠れた意思は、
「けどな…奴は仲間を殺した。そして、協会をこれでもかというほど裏切って、あたしたちを裏切って、犯罪者となった」
憎しみ。
憎悪。
嫌悪。
怒り。
怒気。
赫怒。
「そいつは、今はある犯罪集団の首領気取りで、お山の大将を飾ってやがる。崇拝者に囲まれ、仮初めの王冠をかぶって、日の目を浴びることもなく、青空を仰ぐこともなく、暗闇で、暗黒で、深淵で、馬鹿げた理想掲げて好き放題やっている。そいつらは――『禁言』って呼ばれてる」
静謐な湖に落ちた小石。
それが立てた波紋。
瑠奈さんの言葉が俺に起こしたのは、その程度。
「もう、わかったよな――お前が2日前やりあったッつーのは、そいつが崇拝者の一人を自分に『仕立てあげ』た人形ってわけだ」
けれど。
波紋は大きく伝わる。
伝わって。
岸で反射する。
そして、繰り返し、湖を揺らす。
扉が開く。
沙理奈と、その傍らに拓実がいた。
俺を見て、いつもと変わらぬ目で俺を見続ける、拓実がいた。
でも、その口元は笑っていても。
心は、笑っていなかった。
そう、わかった。
「…これで、てめぇを狙った奴の正体がわかったか?理解の遅ぇ、英語に慣れんのにも3ヶ月もかかりやがったてめぇでも、このあたしが、てめぇを狙う敵を追ってるってことは理解できたか?」
瑠奈さんは二人にかまわずに、話しかける。
俺に。
「だから、お前はここで寝てろ、いいな。沙理奈と拓実に命懸けても守るようには言ってある。だから―――く・れ・ぐ・れ・も、夏葉ちゃんを助けようとか、そういう風に考えんじゃねぇぞ」
夏――
夏葉。
夏葉、助ける。
そういえば、
そうだった、な。
夏葉は、あの男にさらわれたんだっけ。
あれは、やっぱり悪ふざけじゃなく。
たちの悪い冗談ではなく。
それ以上に残酷な真実だったのか。
それでも。
そう理解しても。
俺は、俺の心には。
なぜ何もわかない?
「…ッチ。こりゃ悪い予想のほう、か………沙理奈、テレビつけてくれ。んで例のニュースやってるとこに」
瑠奈さんが舌打ちと独り言、そして沙理奈への指示を口にした。
拓実が持ってきた小型のテレビが、俺の目に映るところに置かれる。
そのまま拓実がスイッチを入れ、
沙理奈がチャンネルを回す。
やがて、一つの画面が固定されて映し出された。
ニュース番組だった。
大き目の見出しにあわせて、キャスターが熱弁をふるっていた。
そこにはこう書かれてあった。
「港市で通り魔事件―被害者増加―」
「こいつはな、お前が気絶してる間の2日間に起こったことだ」
瑠奈さんが言う。
「2日で被害者10名近く。しかもその全員が加害者を目撃していない。幸い、死者は出てねぇが――お前、誰の仕業か、わかるだろ?」
俺はそういわれる前に、ニュースのテロップを見て、
最も酷いけが人がいた事件現場の、光景を見て、
残酷に、理解していた。
それはある一人の人間でなければ起こせないものだった。
その人間固有の得物で、固有の力を使わなければ、起こせないものだった。
その得物の名は、正輝。青竜偃月刀の形をとる、言霊、言具。
その得物を駆るのは、月読之龍神の真名を持つ、言霊師、深月龍哉。
「…お前が話してた、気絶する前に見たっつーおまえ自身はな」
俺の耳を通り抜ける瑠奈さんの声。
「俗に言うドッペルゲンガーって奴だ」
それは、湖に投げられた石。
それも、先ほどとは比べ物にならない大きさの。
おれ自身が、夏葉のことでも無反応に近かったおれ自身の、その存在を無意識的に確実に揺るがすような。
そんな言葉。
「事例ではほとんどねぇ。――ただ、その被験者に起こったことは似通ってる。言霊の力の一部または大半を失ったり、自分自身の体を制御することもやや難しくなったり――そして、ドッペルゲンガーを生み出した人間たちは、そのままでは共通して一つの結末に至った。力を、全てもう一人の自分に奪われる、つまり入れ替わられ、死ぬという結末にな」
目覚めて初めて。
俺の心臓が、高鳴る。
けれど。
「まぁ安心しろ。手はちゃんと打って――どうした?」
俺は、口元を緩め。
穏やかな顔をしていた。
「…正直、死にたい気分です」
かすれた声を、吐き出す。
「走って、走って、走って、昔から逃げて、今から逃げて、そうして、疲れたんです。もう」
瑠奈さんにむかって吐き出す。
「人も、竜も、殺してしまって」
弱音を、全部吐き出す。
「挙句の果てに、俺の周りにいるみんなに迷惑かけて、巻き込んで、夏葉にも――夏葉も」
「誰も、迷惑だなんて、思ってないわよ」
沙理奈が、口を開いた。
「誰もアンタが迷惑だなんて――」
もう少しで叫びだしそうな声は、瑠奈さんにさえぎられる。
俺は、そんな沙理奈に笑みすら浮かべた。
ごめん、沙理奈さん。
俺はもう、そんな風に言葉だけじゃ素直に従えない。
言霊というものを、知ったから。
言霊の闇を、知っているから。
言葉の空虚さを、知ってしまったから。
「…俺は、恨んでるかもしれない。この世界を。そして――」
俺は、もう止まれなかった。
過去の思い出すらも、蹂躙した。
「――月読家に生んだ、母さんを」
瞬間もなかった。
俺は ベッドから落ちていた。
気付く間もなく、痛みが遅れてやってくる。
「っざけてんじゃねぇぞ」
瑠奈さんが俺の服をつかむ。
「てめぇがどうだこうだはどうでもいいんだがよ」
そのまま襟首をつかんで顔を自分のほうに寄せる。
「てめぇの母親を――百合を侮辱すんのは許さねぇ」
瑠奈さんが、怒っていた。
本当に、心の底から怒っていた。
初めて、だった。
「てめぇが死にてぇなら止めねぇよ。首切りたきゃさっさと切れ。飛び降りたきゃさっさと落ちろ。あたしはここでどっしり構えて見続ける。お前の最期を見届けてやるよ」
瑠奈さんが笑う。
「だがよ…そうしたらてめぇはただの負け犬だ。好きな女を奪われて、人殺した重圧に潰されて、挙句もう一人の自分とかを生み出して――オトシマエもつけらんねぇうちに人生リタイアか?」
そして、再び険悪な表情に戻る。
「ざけんなよ。てめぇは曲りなりにもあたしと血ぃつながってんだよ。そんな程度で死んだらよみがえらせてでも殺す。あの世に行っても追いかけて殺す。お前のやったこと、起こしたことに責任もてねぇ奴はガキだ」
瑠奈さんが一層強く襟を締める。
「そして、テメェはガキだ」
俺は、膝をついていた。
戒めを解いた瑠奈さんが、王侯のごとく俺を睥睨する。
「だからこそ、好き勝手できんだろうが」
膝をついた俺に、瑠奈さんが言葉を落とす。
「ガキだから、自分で背負い込む必要なんかなくて、全部大人に押し付けられんだろうが。なんでかな、テメェら思春期ってのは妙に大人ぶりやがって…馬鹿馬鹿しいにも程があんだよ」
その言葉は、俺を押しつぶす。
「あたしはテメェの保護者だ。沙理奈はテメェの上司だ。拓実は面倒を見てくれる人だろ。他にも――友達だってよ、アメリカじゃあできなかったくせに、たくさんいんじゃねぇか。全部テメェとは関係ないってか?笑わせるね」
容赦ない言葉は、だからこそ俺を打ちのめす。
打ちのめして、叩きのめして。
そして。
「とにかく――ああもう、どうでもいいか。テメェは寝てれば万事解決だ。テメェはガキなんだから、事後処理は大人に任せろ。んで寝てろ。自分の好きなように、な」
瑠奈さんは、戒めを解いて。
俺に背を、向ける。
俺は。
空虚なはずの俺は。
聞いた。
「みんなは…」
瑠奈さんは答えない。
「他のみんなは、何をしてるんですか?」
俺は、聞いた。
瑠奈さんは答えない。
でも。
沙理奈が答えた。
「隼と凌斗、それにフェリオは戎璽様のところに。宗治狼と諷は生霊評議会。あとは、例の男とアンタのドッペルゲンガーに対しての警備」
瑠奈さんは、部屋から出て行ってしまっていた。
それでも。
俺は沙理奈に向き直る。
そして。
「ありがとう、沙理奈さん」
頭を下げた。
と、体が揺らぐ。
拓実が、それを支えてくれた。
「まだ、無理しちゃ駄目だよ」
そうして、俺をベッドに戻す。
俺は言った。
「ありがとう…拓実」
沙理奈の表情は見えなかったけれど。
拓実は、普段どおり、心の底から笑ってくれた。
「…大丈夫、みたいですね」
沙理奈が事務所の椅子に座りながら切り出す。
「…心配していたことが、起きなかったようで」
拓実も続ける。
二人同様に椅子に腰掛け、タバコをふかす瑠奈は無言。
ドッペルゲンガーの症例には、ある特別な例が存在している。
被験者が、その感情と理性、その全てを失うという症例が。
段々と、大切なものの記憶が薄れ、喜びを失い、怒りをなくし。
そして、人形のごとくなって、死に至る。
「でも、龍哉は大丈夫そうだから、それはよかったと思います」
沙理奈の言葉に、瑠奈がタバコを潰す。
「いんや。アイツはその症状が出てるよ」
食後のデザートを味わうように、軽い口調で断言する瑠奈。
「しばらくすりゃ……文字通り人形みてぇになるだろな」
沙理奈と拓実は、口を開いたまま固まる。
それでも、龍哉はあんなだったにも関わらず、
それでも、感情が消えゆく運命にあるのか。
「…ま。しばらくは大丈夫だろ…それに、アイツなら一人で何とかする」
瑠奈は笑みを浮かべる。
「なんたって……アイツはガキだが、中途半端に大人だからな」
笑いながら、その笑みにつられた沙理奈と拓実も、表情を崩す。
龍哉だから、1年も共に過ごしているから。
それでも、信じられる。
笑いながら、瑠奈がふと気付いたようにつぶやく。
「そういやぁ…ドッペルゲンガーと交戦して病院送りのガキ、どうだ?」
沙理奈がやや表情を固くするも、口調は変わらずに答えた。
「大丈夫です……ただ、ちょっと問題も」
「ま、入院するぐらいだからな……アレばっかしは言霊での直しが利かなくってニュースにもなっちまったしな」
瑠奈が再びタバコをくわえる。
「なんつったっけ?――卓弥、だったか?」
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言霊へモドル