六十六話「変わりゆく日常」




港市中央病院の真新しい廊下を歩く。

よく手入れされているようで、窓から入る光が反射し、ややまぶしいほどだ。

渡り廊下を越え、ある親子にすれ違う。

足をかばいながら、しかし動き回ろうとする少年と、それを頑固に止める母親の姿。

死と隣り合わせの人間も存在する病院内にとって、そのやり取りはむしろ微笑ましいものだ。

だが。

少年のかばう足の傷。

それは、明らかに切り傷。

そして、その傷を与えたのは。

その事実が俺の心に突き刺さる。

わずかに。

けれど、確実に歩調を速め。

親子連れの脇をすぎる。

目的の部屋は、その目の前だった。



「おう、今度は遅刻じゃなくて、サボリの称号をゲットしたのか、眠り姫?」

あてがわれた個室で、卓弥が陽気に右手を上げて俺に声をかける。

ギプスで固定された右腕を。

「…………」

思わず。

息を、呑んだ。

卓弥の体は、病院の服に包まれていた。

その病院の服と顔以外。

ベッドの上にあったのは、白。

吊り下げられた右足。

折れているのだろう、胸元においてある左腕。

今挙げた右腕も無事ではないのだろう。

そして、その服の下にあるのは…多分もっと酷い。

もっと、非道い。

医者からすれば、とんでもない傷だろう。

卓弥だから。

言霊師だから、助かってるような。

そんな、重症だった。

それにもかかわらず、卓弥は陽気だった。

動かせる右腕で文庫本を読んでいたところだったらしい。

「どうしたよ?俺の負けっぷりに驚愕したのか?」

言ってから自分で苦い顔をする卓弥。

冗句で自分を傷つけてどうする。

俺は溜め息をついて、持ってきたバスケットをベッドの横に置いた。

「いまどきフルーツかよ……ベタだな、お前」

「お前に言われたくない。それに重症患者らしくもっとしおらしくしてたらどうだ?」

俺の言葉に、しかし笑って答える卓弥。

「まぁな。包帯替えに来る看護婦さんも、何でそんなに元気なのかいっつも聞くぜ」

「そうか。浮気情報を樹に教えてやらないとな」

そこで卓弥の顔から笑顔が消えて、慌て成分100%卓弥に大変身を遂げる。

「な、な、なんで樹が出てくんだよ!アイツはカンケーないだろ!?」

「一般人の中で真っ先に見舞いに来た、しかも女にそのセリフはどうかと思うぞ」

ついでに持ってきていた果物ナイフで、りんごをむく。

本当なら秋終盤ということで柿をむいてやってもいいのだが、流石に今の状況の卓弥に嫌いなものを食わせるような嫌がらせはできない。

卓弥はむきになるのが馬鹿らしくなったらしく、ベッドに背中をあずける。

といっても、遅すぎ。既にコイツの胸中は読めたも同然だ。

思わず、口元がほころぶ。

いままでの、俺だったなら。

「…で?どうなんだ、その傷」

内心の焦りを、動揺もなにもあらわれないからこその焦りを、覆い隠すように卓弥に聞く。

「ホントなら言霊でさっさと治せるんだろうが……」

卓弥は言いつつ露骨に嫌そうな顔をする。

「相手が周到だったんだな。褒める気にゃなんねーけど――反言霊の言霊を、武器に加えてたらしい」

俺がりんごの皮をむく手を止めて視線を送ると、卓弥は右手を顎にあてて、

「んーなんつーか…言葉で表しづれーんだよな、これ。言霊に対する言霊、っつーかなんつーか……」

余計に意味がわからない。

「つまり、後でかけられるであろう治癒系統の言霊を想定して、それに対する言霊をあらかじめ武器に付加して、そうすることで傷口は他の言霊の効果を受けづらくなるっつーか……OK?」

「……とりあえず、な。お前国語何点だった?」

「86点だ」

「下がったな」

「お前ほどじゃねぇだろ」

「五月蝿い」

「で、何の関係があるんだ?それとこれと」

「別に」

そしてお互い黙る。

静かな病室には、りんごの皮むきの音だけが聞こえ、反響する。

「…ホラ」

俺はむき終わったりんごに、わざわざ楊枝までさして卓弥の前に置く。

「あんがとよ」

卓弥も上体の反動を利用して起き上がる。

その際、

「……っ」

わずかに体に走った緊張を、見逃せるほどに俺は鈍くなかった。

何も言わず、何も言えず、

ただ、起き上がるのに手を添えてやった。

「…なんだ?気持ち悪ぃな……」

支えられた卓弥が不審そうな顔をする。

「………余計なお世話だ」

無表情で、ようやくそう答えた。



俺が入ると、教室は一瞬だけ静まり返る。

そして、すぐにもとの喧騒を取り戻した。

港来高校、1年2組の教室。

いつもどおりの、教室。

そのはず。

単に、俺が2日休んでいただけの、その教室。

その、はずだった。

けれど。

そこに開いた穴は、明らかに大きい。

卓弥が、いない。

フェリオも、いない。

必然的に、クラスのざわめきが、普段よりも小さくなっていた。

そして。

「………………」

わかりきった事実。

知り尽くしていたはずの事態。

それでも。

俺の心をかき乱す。

夏葉の、席。

空席。

俺は。

俺は。

ゆっくりと、自分の席に座った。

2日間の間。

クラスの間に、何が起こったか。

想像できない。

否。

想像することを、拒否している。

俺の胸中に生まれる疑問。

フェリオは、いまごろは戎璽のところにいるのだろうか。

卓弥は、なぜいないのだろう。フェリオたちについていったのだろうか。それとも……

夏葉は――――夏葉は、どうなっているのだろう。

いない、ということの、埋め合わせ。

真実を隠す、虚構の事実。

どんな理由をつけたのだろうか、沙理奈は。

そして。

今は、どこで。

何をしているのだろうか。

元気、なのだろうか。

あの笑顔は、まだあるのだろうか。

夏葉。

夏葉――

夏葉、夏葉、夏葉。

「……………………っ」

それなのに。

涙すら、こぼさない。

こぼせない。

俺の胸中を渦巻くはずの。

渦巻いているはずの、思いが。

想いが。

抜け落ちるように。

吸い取られるように。

あるいは、風船がしぼむように。

あるいは、栓が抜けた水桶のように。

消えていく。

「……………」

HRが始まる。

俺の目が、視覚として捉える。

耳が、谷口の言葉を捉える。

授業が始まる。

流れる。

流れる。

時間が。

無為に。

無下に。

「―――――龍哉」

呼びかけられる。

気付けば、3時限目が終わっていた。

呼びかけたのは、樹だった。

「…お前、2日間休んでたけど……」

何をしてたの、とは聞かなかった。

何があったの、とは聞かなかった。

ただ。

「大丈夫か?」

そう、言ってきた。

俺は。

空っぽの俺は。

「大丈夫だ」

空っぽの言葉で。

空虚な飾り言葉で。

言霊どころか、意思すら宿らぬ文字の羅列で。

そう返答した。

「…卓弥とか、どうしたんだ?」

俺の言葉に樹はやや表情を暗くした。

「知らなかったのか……」

そして、続ける。

「卓弥はなんか、最近出てきた通り魔ってのに襲われて、入院中」

俺は顔をあげた。

「知らないなんて意外だな。てっきりアイツとお前の仲だから、とっくに知ってたものと思ってたよ」

樹は、驚きと呆れの等配分の表情を、疑問のそれにかえる。

「…でさ、お前夏葉について詳しく知らないのか?アイツ旅行行くってことで2日前から休んでんだよ……一言言ってくれりゃあよかったのに」

樹の疑問は、しかし始業チャイムに阻まれた。

4時限目が始まる。

数学だった。

俺は、体調不良を理由に早退した。

あてもなしに、とりあえず病院へと向かった。

そして、今に至る。



「…ふ〜〜ん、なるほどね……予想はしてたけど俺がいないとみんな元気ないってか」

りんごを頬ぼりながら器用に喋る卓弥。

俺の話を聞いているうちに、りんごは最後の一つを残すところとなっていた。

「…ま、そんな話聞かされちゃ、さっさと治さねぇとな」

その最後の一つを卓弥は口に放り込む。

「時間がたてばこのアンチ言霊とでもいう感じの言霊も薄れるだろ。そしたら言霊でばれない程度に回復力高めりゃおわりっと」

飲み込む。

そして、笑う。

「……すまない」

「…は?」

卓弥が聞き返す。

「いや、なんでもない」

俺は立ち上がる。

「なんだ、ゆっくりしていきゃいいだろ」

「いや……ちょっと、用事があるんだ。悪いな」

「あ、そう。じゃあまた暇なときに来いよ」

卓弥は手を振る。

笑顔で。

俺は、直視できない。

卓弥は、俺の謝罪の意味を取り違えただろう。

俺が早く帰るのを謝った、そういう風に捉えるだろう。

俺の真意を。

もう一人の俺が、卓弥を傷つけたことを。

謝罪しているとは、思わないだろう。

そうだということも、知らないのだろう。

「しっかし、あんな奴が禁言にいるとはぁな」

りんごを食べながらの言葉。

「偃月刀なんざ、まるでお前だぜ。姿かたちも似てたから……変装の達人だとか?」

それは、紛れもない。

飾り気もない言葉だった。

だからこそ。

俺は。

俺自身をさいなむ。

自身を。

俺自身の手で。



誰もいない、誰もいなくなったその部屋に。

俺は帰ってきた。

2日ぶりだった。

これといった、感慨すら沸かない。

その感慨すら、吸い取られたかのように。

「…待ってたよ、龍哉君?」

聞いたことのある言葉が、俺の思考を断ち切った。

「宗治狼様から伝言。それから、しばらく君の周りの警護を任された」

鼬が、声を発していた。

鈴音家にいた、はず。

確か、名前は――

「一応忘れてるかもしれないから名乗っとくと、俺は鼬丸だからね」

「…2ヶ月前は、世話になったな」

一応、俺ももう一度礼をしておく。

鼬丸は、いや気にしなくていいよ、と律儀に返してくれる。

「それで、伝言だけど」

鼬丸は話は性急に進めたがるタイプらしかった。

今の、空っぽの俺には。

それが丁度よかった。

「…龍哉、自分のしたことに納得できないなら、自分が今いる状態に納得できなかったら」

鼬丸は、宗治狼の言葉を反芻する。

「自分で、変えようとするんだ。それが、君だから」

迷わないで、と鼬丸は付け加え、そして、

「これだけ。それじゃあ俺は奥の部屋に行かせてもらうよ。夕ご飯できたら呼んでくれよ」

しばらくして、

扉が開く音と、閉まる音がした。

俺は、一人残される。

自分のしたこと。

納得、できない。

自分が今いる状態。

こんな。

こんな、空っぽな状態。

自分で、変えようとする。

それが、俺。

そう、なのだろうか。

そう、なのか?

答える宗治狼はいない。

答える夏葉はいない。

答える、俺の中の声もない。

大切なものが、ない。

「オトシマエもつけらんねぇうちに人生リタイアか?」

瑠奈さんは、そういった。

沙理奈と、拓実は俺を黙ってみてくれた。

卓弥も、俺のしたことを知っても、普段どおり笑っていた。

多分。

事実を告げても、そうしてくれると思う。

類推ではなく。

確信めいていた。

そうだ。

そうだよな。

自分で、変えようとしなきゃ、始まらないんだよな。

これまでだって、流された気分で。

流されたようなふりをして。

その実、ちゃんと自分で決めていた。

どうするべきか、決めていた。

結果によって、俺はその選択を否定していたんだ。

選択に、正しいも、間違っているも、ないはずなのに。

だから。

だから、今も。

自分で変える。

自分の力で――




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