六十八話「満月・殲葬(たたかい)」




20階建てマンション、ルナステイト神楽。

建てられた当時、港市内では最高の高さを誇り、それなりに高級であったマンション。

このマンション街で、頭一つ分飛びぬけているそれは、今でも最高の称号をいまだそのままにしている。

だが、その恩恵を預かるものはない。

既に管理者はこのマンションを見捨て、さらに住人にも見捨てられた。

なぜそうなったかは、誰も覚えていない。

否、忘れてしまっていた。

何か、そのマンションがさびれ、今のごとく幽霊マンションの風を漂わせるようになった前後。

その前後にあったはずの出来事。

人の死を含めた事件が、あったはずだった。

それはしかし、誰も覚えていない。捕まった犯人がいたことも、かつて紙上をにぎわせたことも。

気付かない程度の、本当に些細な過去の出来事として。

それが、言霊を管理する組織――言霊協会による工作であるということは誰も知らない。

そして今。

事件から、5年という歳月をかけて。

そのルナステイト神楽の屋上に、人が立っていた。

二人の人間は、しかし一つの影を持っているように、

輝く満月の下で対峙していた。

二人共に、それぞれがそれぞれの鏡の虚像のごとく。

ただ違うのは、その手にあるもの。

その武器は、言具といい、

名を正輝といった。



「…初めまして、というわけではないな」

俺は、もう一人の俺に言う。

「…そうだな。ここに来たことで思い出したよ」

もう一人の俺は、ただ口元を三日月形にゆがめているだけ。

だから、コレは俺の独白。

「俺は5年前、お前と会ってる」

それがどうした、と言うかと思ったが、しかし奴は表情を崩さない。

ただ、ほんの少しだけ眉が動いた。

まるで感心でもしたかのごとく。

「…5年前は、あの時も、そうだな。今回みたいな経緯だったな」

冬の夜風が吹きぬける。

「俺が、このマンションをこんなにして、いろいろな人を傷つけて、そして――」

「みなまで言う必要なんかねえが?」

ようやく、もう一人の俺が口を開く。

「……ま、お前の力が不完全だったからな。あんときゃすぐに叔母の野郎にお前の中に入れ込まれちまったが」

満月が、輝く。

「つーか、最早追憶なんかどうでもいい。そうだろ?」

もう一人の俺は、青竜偃月刀を。

正輝を、構える。

「コイツで、町の人間たちを何人か切った。最後に切った奴は骨があったな…それ以外はカスだったが、アイツだけは殺し甲斐があった…殺せなかったが」

正輝が放つのは、かつての如き薄蒼い輝きではない。

赤黒い、血のような色。

その色に染めたのは、決して奴ではない。

俺だ。

竜を殺し、多くの言禍霊を殺し、リシャスを殺し、そして再び人の命を奪い、

正輝に血を吸わせたのは、俺だ。

「…どうした?かかってこねぇのか?ハンデやってんだぞ」

もう一人の俺が言う。

俺は―――戦う体勢を、とらなかった。

訝しがるもう一人の俺に、言う。

「…お前は、俺だ。だから―――戻って来い」

その言葉は、一瞬空間を止め。

しかし一瞬だけで空間は動き出す。

「…俺は、お前…ねぇ?」

青竜偃月刀を持つ方の俺が笑う。

「否定したのはお前だ。そう簡単に俺が戻るとでも?」

そういって、青竜偃月刀を構えなおす。

「…それに、もう戻れねぇな。かつてみたいに無理矢理にでも戻らされれば別だが……本質的な解決じゃねぇ」

浮かべた笑みは、半月形。

「俺は何も、お前の闘争心、殺戮精神、その他もろもろからだけ、お前を誘い込んで殺そうとしてるわけじゃねぇんだぜ?」

浮かべる笑みは、本当にうれしそうに。

喜悦をむき出しにして。

「俺とお前が一つになるには、片一方が消えなきゃならんのよ。だから俺は容赦なく――」

風が、吹き抜ける。

「テメェを、消すぜ?」

満月を、雲が覆った。

俺の狙いである、戦わずして勝つ方法が――もともと無理だとは思っていたが、しかし唯一勝算があった勝負が――敗北したことを知る。

刹那。

避けられぬ争いが。

必然の交錯が。

終わりを終わらせるための終わりが。

開幕した。




「ッハッ!!」

喜悦を載せた、青竜偃月刀の突撃。

青竜疾駆ですらないその突撃を、俺はいくら急なこととはいえ、十分な余裕を持ってかわす。

瞬間、脳内に危険を知らせる感覚が登る。

後ろに跳躍した瞬間には、足元から伸びる幾千ものコンクリートの槍。

いまだ着地しない内に俺が見たのは、正輝から走る鮮血の衝撃波。

飛燕洸却を着地と同時に転倒することでかわし、しかし回転は止められない。

一瞬前までいたところ、そして今いるところ、また次にいるところ――追いかけっこのように、槍が突き出す。

奴は怒鳴りもしない、その呟くような言霊で、最小限の力で最大の効果を発揮させている。

言霊が聞こえない故に何が起こりうるのか予測もできないその攻撃を、しかし俺自身が攻撃してくるゆえに予測できるその攻撃を、必死にかわす。

二律背反の死神の鎌を、とび、伏せ、廻り、どうにかかわす。

限られた屋上、その空間を槍が埋め尽くそうとするように、俺を追い立てる。

体をいつしか起こし、そして逃げ回っているときに、

違和感。

見たとき、やはりそれは青竜疾駆だった。

初速によって起こった風圧、それが技を視認するよりも早く知覚させていたのだ。

そのタイムラグを生み出すのは、馬鹿みたいに大きなタメ。

敵に回して初めて、自分のおろかさを知る。

まるで自分のプレースタイルをビデオで見るスポーツ選手のような感覚だった。

奴は――もう一人の俺は、俺以上の戦い方をするが、しかし俺自身のそのままの戦い方も留めている。


そして…奴は俺自身でもあった。

それ故に。

俺はここまで、生身の体一つで戦ってこれたのだ。

俺の動きを奴が予測できるように、

俺も奴の動きを予測できる。

だからこそ、戦いはそう簡単には終わらない。

そして、終わらせたりはしない。

青竜疾駆を事前に察知して最小限のダメージにとどめ、服を切り裂かれただけの俺は逃げ回る。

その俺にじれったくなったのか、凶器を持つ奴は肉薄してくる。

構えから、次にくるはずの技が理解できた。

俺は走りながら突き出たコンクリートを蹴り飛ばす。

折れた長い破片をつかみ、振り向きざまに投擲。

技を出す直前だったもう一人の俺はかわすことができず、やむなくその技を防御に回す。

一瞬で、コンクリートは文字通り微塵に砕かれる。

30の月閃によって。

三十月蓮華によって生じる僅かな隙と、一時的な視界の狭窄をついて、逆に俺が肉薄。

気付いたもう一人の俺が振り下ろした正輝をあげて防御しようとするが、遅い。

青竜偃月刀の弱点たる近接戦闘に持ち込めば、勝機は十分にある。

格闘技研究部でいやでも鍛えられた戦闘技術を発揮する機会でもあった。

振り上げられようとする正輝に空中前転からの踵落としを喰らわせ、コンクリートにめり込んだそれを足場に、奴のあごに膝が向かう。

これを一瞬の判断で正輝を手放したもう一人の俺が上体を反らしてかわす。

だが、これはほんの始まりにすぎない。

振り上げられた膝を中心に、脚を動かす。

奴のガードに直撃する、膝蹴りからの軌道変化によってたたき込まれた横殴りの蹴り。

耐えられたが、硬直が生まれるためにこちらの優位はかわらない。

いつも、正輝を持っているときにはそれに頼りすぎていた。

けれど、この戦い方も必要になるときがあるのだろうと、そう思った。

思いながらも、その考えと関係なく俺の体は動く。

奴の掌底を僅かしゃがんで回避、逆にフリーとなった腹部に突撃と同時に右の掌底をたたき込む。

「…ック……!」

後ろに流れる奴の体に追撃を加えようとした瞬間。

その手に輝く赤い三日月に気付く。

あわてて地面を蹴るも、遅い。

「…ッハァ!!」

半月型の笑みとともに振り下ろされる斬撃を、

後退してしまったが故に、モロに受ける。

「……………ッッッッ!!」

焼けるような痛みを胸の近くに感じ、

それでも気絶をしたら終わりだと、意識を奮い立たせる。

追撃を勘でしゃがむことで回避し、そのまま転がり逃げる。

もう一人の俺は、先ほどの近接戦闘でのダメージが効いているのか、動きを僅かながら止めたままで硬直した。

その間に、俺は胸元をのぞき込む。

心臓まではいってはいない。肋骨も何とか大丈夫だろう。

それでも、転がった屋上のコンクリートには血糊を塗ったような後が残っていた。

そのコンクリートと何かが反発した音を立て、目を向けるとそこには床を蹴って突進してくるもう一人の俺がいた。

回避行動も、痛みでほんの僅かだけ遅い。

その僅かの差が、

奴に俺の脚を破壊する時間を与えた。

ブヂィ!!

鈍い音と、

ゴギィ!!

鈍い音が響く。

斬撃はよけた。

俺の脚の筋肉を破壊したのは。

俺の脚の骨を砕き折ったのは。

純粋な破壊力。

斬撃を交わした、まではよかったのに。

痛みによる硬直が隙となり、

奴の渾身の回し蹴りが俺の右脚を直撃したのだ。

これは、まずいな。

そう思ったときにはもう。

30の月閃の煌めきを、視界の端にとらえていた。




意識が、零れる。

血が、溢れる。

血と命と意識が、一緒に消えゆくような感覚。

否。

吸い取られるような、感覚。

体中、健という健を、筋という筋を、骨という骨を砕かれたような感覚、

その感覚すらも、もう消えゆく。

いつだったか、感じたことがあった気がする。

――死。

俺を照らすのはなんだろうか、月明かりだろうか、確か満月だったそれを、

何者かがさえぎる。

遮ったのは何者でもない、

俺。

なぜか、感情のこもらない目で、

なぜか、俺を非難するように。

正輝の輝きは赤いままで、

どこか、苦しいかのように。

その口が何かをつむいだ、そんな気がする。

けれど、もうどうでもよかった。

痛みを感じない。

何も、感じない。

これが、死だと言うのなら。

気持ちのいいものなのだろう。

もう、死んでもいいのだろうか。

あたりが、やけにスローモーションに感じる。

そうだ、思い出した。

この感覚は、俺が正輝に目覚めた、あのときと同じ。

鬼面の言禍霊に殺されかけた、あの時。

そう。

あの時は、夏葉も殺されかけて。

――――夏葉。

俺に話しかけてきてくれて、

俺を言霊の世界に巻き込んで、

それを悔やんで、俺を心配してくれて、

いつの間にか打ち解けて、

いつの間にか、一緒に戦って、

そして。

いつの間にか、恋しく思っていた、その人。

その人は、今はこの町にいない。

連れ去られた、らしい。

俺を狙う、禁言という組織に。

――――そうだ。

何を、死のうとしている?

俺は、もう決めたはずだ。

死ぬことで逃げることなんて、許されはしない。

死ぬことで楽になろうなんて、許しなどしない。

そうだ。

俺は、俺と向き合って、

俺の罪と向き合って、

そして。

すべてを受け入れて、打ち勝つつもりだったのだ。

鼬丸や、他のみんなに黙って、一人で。

一人で―――

―――そうでは、ない。

誰かの、声が聞こえた。

―――お前は、もう一人ではない。

それは、いつか聞こえた声に似て。

―――もう、お前の周りには仲間がいる。

それは、言具から聞こえた声に似て。

―――今ここにいなくとも、お前は皆との絆を持っている。それは――いつでも切れることはない。

しかし、それとは違って。

―――だから、一人で打ち勝つのではない。

そう。思い出した記憶の中の声とは違って。

―――お前が自分を受け止める覚悟をくれたのは、他でもないお前以外の人間たちだ。

今は赤く輝く青竜偃月刀とは違って。

―――お前は、皆と一緒に、自分に打ち勝つのだ。

弟の、正輝の声とは違って。

「…皆、で」

その声は、聞いたことのないものだけれど。

―――そうだ。だからこそ、今になって初めて――

ずっと、聞いていたような声だと、そう思った。

―――私たちは、お前に力を貸そう。

肉親のような、祖父母のような、祖先のような――

―――われら月読の力を。その真の言具、「月夜見」の力を――

俺は、光を感じた。

淡く、白く、蒼く。

月のような光を。

暖かい、光を。

「――――――」

どこかで。

死んだ母さんの声が聞こえた。

そんな、気がした。




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