六十九話「満月・真月」




その波濤は結界をなかったものとして認識したかのごとくに透過した。

否、結界がそれを無効化しきるだけの効力を持ちえなかった。

内部の破壊を全て内にとどめきるだけの結界が。

言具、正輝をもってして、絶対無効化の円月覇断による無効化をも凌駕する。

その波濤によって、市内の言霊師は全て異変に気付く。

弱体化した力であるそれですら、市内を駆け巡り、言霊を認識し得ない人にも違和感を感じさせる。

それは、かつてこの街で起きた最悪の事態、言霊による近代最悪の事件にも似て。

しかし、それを感じた人は無意識に空を見上げる。

その波濤は、柔らかな波にも似て。

その波濤は、薄明るい光にも似て。

それらの人が共通して空を、

青白く光る、清らかな月を見上げた。


「……この、力は」

と、病院の卓弥が月を見上げた。


「……なんて、強い」

と、自宅で武が月を見上げた。


「……激しいネ」

と、サーベルを磨くフェリオが月を見上げた。


「……だが、静かだ」

と、市内を回る凌斗が月を見上げた。


「……こんな力、どこから」

と、厨房で後片付けをしていた唯が窓の外の月を見上げた。


「……5年前と同じ、場所」

と、事務所で沙理奈が月を見上げた。


「……かつてと、同じ?」

と、拓実が沙理奈に問いつつ月を見上げた。


「……いいや、違うね」

と、瑠奈が答えて月を見上げた。

「……これは、そんな邪なもんじゃないさ。なんたって……」


「……月読の力、目覚めたのか、龍哉」

と、隼が病室で月を見上げた。

どこか嬉しさを滲ませた。

どこか憂いの秘められた。

母の眠る寝台の前で。

弟の写真を腕の中に。

決意を滲ませる、表情を隠して。



正輝を包み込む、紅い輝きを。

それ以上に輝く、青白い光が覆い隠す。

首筋へと伸ばされた偃月刀の鋭い刃を。

より強く、より鋭く、より確固たる刃が押し留める。

俺の呼びかけに応えたそれは。

俺の命をつなぎとめたそれは。

「「―――“月夜見”」」

俺の手の中、青白く光るそれは、正輝よりもやや大きいだろうか。

青竜偃月刀。

月読家の、真の言具。

「…ようやく、舞台に上がれた、ってわけだ」

もう一人の俺が呟く。

同時に、赤い光が宙を舞う。

青白い光に癒された体が、その光の根源を操る。

一撃。

二撃。

三撃。

四、五、六――――

いつしか、数えることを忘れて、

二つの輝きがぶつかり合う。

お互いの存在を、確かめるように。

「……ッッハハハ!!」

紅く煌く俺が、正輝をふるう。

「“青竜疾駆=h!」

俺自身の自覚するところである、その隙。放たれる瞬間の、どうしようもない溜め。

隙を自覚した以上、その青竜疾駆は青竜疾駆たりえない。

紅い閃光が突進する様を、俺の網膜は捉えている。

加速する思考と視覚が、妙に冷静な考えを与える。

それが普通なんだよな、俺よ。

正輝による青竜疾駆は、それが完成形なんだ。

「“繊月、青竜疾駆=h」

後出しで勝てるのはじゃんけんのみ。

この命の取り合いで、後手に回ることは即ち死を意味する。

しかし、それでも。

月夜見から放たれた青竜疾駆は、俺ともう一人が立っていた場所の、丁度中間点で正輝と切っ先を交えた。

それだけではない。

青竜疾駆が。

月夜見が。

俺が。

加速する――!!

正輝を放り出すことで避けた、赤色の俺のいた空間を切り刻む、青竜疾駆。

「――正輝」

空中で苦い顔のもう一人が、投げ出した正輝を手元に呼び寄せる。

「―――ッ“飛燕洸却=h!」

放たれる破壊の刃を、青竜疾駆から立て直した俺が見据える。

「“新月、円月覇断=h」

一瞬にして展開された不可視の障壁が、飛燕洸却をそよ風のごとく散らす。

着地した赤に向けて、刹那の旋風のごとく月夜見を振る。

「“上弦、飛燕洸却=h」

「――ッチィッ!“円月覇断=h!」

回避が無理と判断した赤色の俺が展開した、不可視の障壁。だが、その展開速度は俺のものより刹那遅い。

ギリギリで押し留めることに成功した飛燕洸却を見、もう一人の俺に笑みが、

走ろうとした瞬間、砕ける。

言霊を無効化する障壁が、ただ単純な力の差で相殺されつつあるのだ。

言霊を圧縮して放った、リシャスのように。

「――――!」

そして、再びもう一人の俺は回避を敢行する。

身をかがめ、地に伏せるように横にとんだ直後、

円月覇断が砕けた。

受身を取り、正輝を呼び寄せたドッペルゲンガーは、俺からの狙い撃ちを避けるように、ランダムに走り出す。

ほとんど同時に、俺たちは言霊を自身の体に乗せた。

「“月歌福唱=h!」

もう一人の俺の、動きが早まる。

「“小望月歌福唱=h!」

これまでにないからだの軽さを、俺の感覚が知覚する。

ランダムだった動きは、いつしか点対称に。

そして、対称点で交錯する!

「“三十月蓮華=h!」

「“十三夜、三十月蓮華=h!」

刻まれる刻と、火花と、空間。

一瞬でしかないその交錯は、無限の永遠より永く。

「まだまだまだぁぁァアアアアア!!!」

紅い閃光が、輝きを増して加速する。

青白い閃光が、蹂躙され喰らわれるように、輝きを失う。

けれど。

「“十六夜、三十月蓮華=h!」

その光景が、ビデオの巻き戻しのごとく、

それは、拮抗する時点を越えてもなお。

増え続ける青白い光が、赤の力を吹き飛ばす。

「ぐぁっ!?―――がっ!」

屋上の入り口近くのコンクリートに叩きつけられたもう一人の俺がうめく。

その背後に、月はない。

月読の守り手である、月はない。

「――終わりにしよう、俺」

俺は、満ちた月を背に受けて、

輝きを強める月夜見を『俺』に向ける。

切っ先を向けられた俺の闇は、それでも笑みを浮かべて立ち上がる。

「――いいぜ?俺はもともとそのつもりだ、俺よ」

『俺』は、青白く光る月に相対して、

輝きを強める正輝を俺に向ける。

切っ先を向けられた俺は、それでも考えは変えない。

「 「“月下に映えしもうひとつの閃光。暗き地を照らし、我らに命を与える力”」」

言葉を重ねるごとに、輝きが強まる。

「「“悠久たる時を経て、現世において輝く命。遙かなる地を経て、我らに輝きを与える汝”」」

まるで鏡を見るように、どこまでも同じ、それでいて対象に言具を動かす俺と『俺』。

「「“汝は光、されど汝は剣。そして汝は月”」」

口上もやがて終わる。そして、そのときこそ。

「「“故に汝をとどめる縛鎖はなし”」」

この戦いに、俺自身の、長い戦いに、一つの結末が下される。

「“正輝――――」

赤い光が、極限まで高まった。

「“月夜見――――満月」

青い光が、眩いまで高まった。

そうして、俺たちは踏み出す。

その刹那に、俺は。

「「“三日月光列旋!=h」」

この“唄”が、どうしようもなく美しいと思った。



その衝突で、結界は飽和状態になりつつあった。

結界が決壊するという、笑えない事態になりつつあることに、中の二人は気付かない。

その一方で、異変にようやく気付いた言霊師たちが、その戦いの場である、ルナステイト神楽の残骸に向かっていることにも。

もう一つ。

恐らく本人も気付かずに張ったであろう、その結界が。

月読の力の波濤を、港市内に広がるのみにとどめたその結界が。

一人の『鍵』の覚醒を、その鍵を欲する者に知らしめるのを邪魔していたということも。

二人はまだ気付かない。

禁言が、何のために夏葉をさらったのか。

逆に言えば、なぜ夏葉が生きたままさらわれ、生かされたままでいるか。

その理由を、二人―――深月龍哉は、知らない。



「「はぁあああぁぁあああああぁあ!!!!」」

紅と蒼、相反する二つが、お互いを蹂躙する。

その力は、互角。

「……!……っは!」

「……!……っく!」

月夜見を通じて、衝撃が伝わってくる。思わずに放しかねない。

だが、それは相手も同じ。

それすらも、互角。

このまま決着がつかずに、力だけが暴発すれば。

―――――そこで、俺は結界があったことに気付いた。

結界内で、これだけの蹂躙の力が濃縮されれば。

俺は最悪の想像を浮かべてしまった。

少なくとも、あの竜を屠った力が、全力で二つ、しかも次から次へと送り込まれているのだ。

良くて、俺たちとこの瓦礫の屋上部分が消失、悪ければ町にクレーターを作りかねない。

相手の顔を見る。

それは、笑みを作っていた。

瞳が雄弁に物語る。

――――さぁ、どうする?




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