第七十三話「籠の中で」




また、暗闇の中で目を覚ました。

辺りを見ても、照明器具の著しく乏しいこの場所では、薄暗い壁が見えるだけだ。肌触りからもコンクリート製だとわかる。壁紙はなく、むき出しになっているのだ。

唯一の光が漏れてくる廊下側――ドアの僅かな隙間を見て、今日が何日目だろうと、ぼんやりと考える。

ふと、ドアが軋む音がした。廊下にあふれる――といっても、本来の建物と比べれば少ない。単に、この暗闇からすれば、だ――光が、小さな部屋の全景を照らし出す。

思わず目を細める。薄らいだ視覚の向こうから、聞きなれることになってしまった声が聞こえてくる。

「朝食、置いとくけど」

声は成熟した女の――大人の女性のものであるようだった。だが、もはや見慣れたといっても過言ではないその人物を、いまさら声から想像することなどはしない。

無言のままでいると、その女性はため息をつきながら持ってきたトレイを小さなテーブルに置く。

「一応食いなさいよ。死んでもらっちゃ困るんだからね」

ようやく明順応した視界に、女性が映った。

逆光でおぼろげなのは否めないが、それでも強烈な存在感を放っている。薄青い髪を肩まで伸ばし、RPGでしか見ないような服――ぴっちり体に張り付くスレンダーな――を着ていた。バランスの取れた体を一層際立てている。

だがまず感じ取れるのは、その人物が普通ではないことだ。

それは、例え特別な力がなくてもわかるだろう。その女性の瞳を見さえすれば。

その目を初めて直視したとき、何が起こったのかは忘れたが―――とにかく、とても気持ちが悪くなって、苦しくなって―――気絶したらしい。

らしい、というのは、その女性に気付けをされてから教えられたためだ。そのときは、女性のほうがこちらに目を合わせるのをやめていた。

今では何とか直視できる。それを、「力が回復してるんでしょ」で女性は片付けたが。

その女性は、部屋でひとつしかない椅子にどかどかと座り込んだ。腰からライターを取り出して、壁にある燭台に火を灯す。

ようやく部屋自体に光が広がった。相手の顔が見えるようになった。当然、こちらの顔も、相手からよく見えることになる。

「……こっちがこう言うのもなんだけど………ひどい顔してるわ」

テーブルにひじをつけた左手に顎を預けて、女性は言う。

「……だったら、ここから出してください」

無駄だとわかっていても、言ってみた。

相手もそれをわかっているのか、薄い笑みを浮かべる。

「残念ね。それが実現できないのはわかってるでしょ、夏葉」

自分の名前を呼ばれた。なぜかは知らないけれど、相手の名前を言ってやりたくなった。

「そうですね、グラシアスさん」

「さん付けで呼ばれたくはないといったでしょ。言っとくけど10も違わないから」

魔性の目で夏葉を見ながら、女性――グラニアスは言った。視線がふと下にずれる。夏葉に促しているのだ。

無言で、夏葉はスプーンをとった。

ここ最近――2週間ほどか、この場所に来た当時の夏葉は、出される食事にほとんど手をつけなかった。

それは当然だろう。なにせここは―――

ここは、禁言のアジトであるらしいのだから。

それは、帰り道。テニス部の活動を終えた夏葉を襲った、突然の出来事。

実際、何が起こったのかなど理解する前に、すべては終わっていた。夏葉が、今日も龍哉の家で瑠奈さんに料理を教わろうと張り切っていたときに、すべてが。

道の途中で意識が薄らぎ、気がつけば椅子に縛られていた。

そして―――

「―――スプーン。こぼれる」

グラシアスの声が夏葉の意識を呼び戻す。ゆっくりとスプーンを戻すころには、夏葉の額には脂汗が浮かび、右手は小刻みに震えていた。

恐らくその原因がわかっているのだろう、グラニアスも僅かに眉を下ろして、目をそらす。この状態で、自分が相手を覗き込むことの危険さを知っているからだ。

夏葉がこの場所――正確には、禁言のアジトにつれてこられたとき、初めて対面したものは――――――闇、だった。

あんなものと向かい合っていた、そのことがいまだに信じられない。

その後、この個室につれてこられてすぐに、夏葉は倒れた。

意識を取り戻し、グラシアスと出会ったときには3日間が経過していた。視線を合わせないグラニアスから聞いた事によれば、衰弱している状態で“言霊封じの言霊”のかけられた場所に入ったから、体を構成する言霊自体も影響を受けたのだという。

とにかく、この場所にいる以上、言霊を使用することはできない。だからこそ、夏葉はグラニアスと向き合えるのだ。

初めて会ったときのグラシアスの印象は、恐ろしい人物――自分がかつて呼び出した生霊の雪女よりも遥かに――だった。

けれど、それから今日までの間に、夏葉のグラシアスに対する警戒はある程度薄れていた。

彼女は、夏葉が目を直視して倒れて以降、夏葉と視線を合わせることをしなくなった。

日本語を話せるのは、かつて日本の友人がいたからだし、組織の上層が日本語圏の人物だかららしい。

食事をしない夏葉を諭し、暇な一日をトランプなどを持ってきて、一緒にすごしてくれた。

今、微かに夏葉をうかがう瞳に、言霊の力が宿る普通でない両目に、柔和さが浮かんでいるように感じるのは、気のせいではない。

それでも、と夏葉は思う。

それでも、彼女は反摂者なのだ。

反摂者であり、禁言であり―――犯罪者なのだ。

その事に対し、夏葉は完全に敵対するつもりだった。

反摂者を、言霊師として許せるはずがない。

禁言を、竜を操ったり、学校を襲ったりしたその組織を、ただ黙って見ていることなどできない。

それなのに。

それなのに、何でグラシアスは―――

「ほら、冷めるよ。食べないとまた体力が落ちる」

グラシアスが言う。

それでもなかなか夏葉が動かないと――正確には葛藤によって動けずにいると、グラシアスはスプーンを右手で持ち、スープをすくった。

立ち上がって夏葉のそばによって、その口にスプーンを近づける。少し前だったら、部屋に食べ物がばら撒かれていただろう。

けれど―――

夏葉は、そのスープを口に含んだ。

冷めて、あまりおいしくはなかった。

グラシアスはそのスプーンを、左手に持ったスープ皿に突っ込む。またすくう。運ぶ。飲ませる。またすくう。

それがしばらく続いて、しかしすべてのスープが夏葉の胃の中に消えるまで、夏葉はそれを拒まなかった。

拒んだとしても、グラシアスは何も言わない。前、部屋に散らかした食べ物をせっせと片付ける姿を見て、夏葉は奇妙に思うと同時に、えも言えない罪悪感にとらわれたものだ。

グラシアスは犯罪者で、反摂者で、禁言であるはずだ。それなのに、夏葉にこんなに優しい。

それが、上層―――あの、闇≠恐れて、あるいは闇の命令で、であるかどうかはわからない。

ただ、夏葉はその優しさでグラシアスという人間を捉えようとしていた。そうであると信じたかった。

少し前に、聞いた質問をしてみる。

「ねぇ、グラシアス――」

さん、は入れない。パンをちぎっていたグラシアスが夏葉を向く。

その魔性の目も、もう夏葉には耐えられる。グラシアスが抑えているからか、夏葉が回復したからか、この部屋の“言霊封じの言霊”のおかげか、あるいはそれらすべてか。

「あなたは、本当に禁言なの?」

ほんの少し。

ほんの少しだけ、グラシアスは笑った。

「当然でしょ。でなきゃ、ここでアナタの世話はしてないわ」

また、パンを千切る作業に戻っていた。

その表情が、やはりほんの少しだけ悲しげに、夏葉には、見えた。

「そうだ、リーダーからだけどね」

一口サイズになったパンを差し出しながら、グラシアスは言う。

「もうすぐ、らしいわ」

「もう、すぐ?」

パンを手にとって、夏葉は聞く。

「もうすぐ、あなたが必要になる。そう、言ってたわ」

「………………」

夏葉は表情を落とし、軽くうつむいた。

その夏葉を見て、グラシアスが付け加える。

「――――月の鍵が、ようやくやってくる。繋ぎ目のドミノが、自分から入り込む」

夏葉は、顔を上げた。それが何を意味しているかわからなかったから。

疑問を浮かべる夏葉に向けて、グラシアスはほんの少し逡巡して、言った。

「月読家の人間が、やってくるそうよ」

夏葉の手から、千切れたパンが落ちた。

急に、体温が上がったように感じた。瞳が熱い。

ほっぺたを何かが伝う。涙だった。

夜、寝る前に一人だけ、暗闇の中にいるときに。

家族や、友達、知り合い。

そして、大切な人たちのことを、思い出す。

そのときに流れてしまう涙と、怖さと不安からの涙と、真逆の意味を持つ涙を、今夏葉は流していた。



部屋を出たグラシアスはすぐそばの壁に背を預ける。冷たさが直に背を伝って流れ込む。

つくのはため息。見上げるのは天井の薄暗い蛍光。

「………随分と、感情移入しているな」

近くから、声がする。面倒くさそうにグラシアスは返答する。

「つまらない詮索ね。あの子に死なれちゃ困るんでしょ?衰弱死を防ぐためには愛情が必要なのよ」

その声は、部屋の中までは届かない。

「それが例え、偽者だとしても、ね」

グラシアスの顔には、嘲るような表情が浮かんでいた。魔性の瞳が、相手の方を見据える。

「……フン、ならば、いいがな」

暗闇から現れた男は、グラシアスよりも年を食っていた。夏葉たちの父親と同年代ぐらい、であろうか。

鍛えぬいた体を、ラフな服装で覆っている。その額の傷さえなければ、グラシアスよりもよほど町で見られる人間のような風貌を持っていた。

「あんたこそ、生霊評議会を根絶やしにするってはりきっときながら……結局全滅させるには至らなかったそうね」

「獲物は一気につぶしてしまってはつまらない。奴等にはもうひと頑張りしてもらって、俺の退屈しのぎの相手になってもらおうと思ってな」

男が冷めた笑みを返す。

「……おや、まぁ。『四死』の人間が、こんな何でもない廊下で3人鉢合わせるなんてね」

もう一人、暗闇から何者かが現れた。

黒ずくめのマント、頭と体を覆い隠してもなお僅かに後ろに伸びるそれが、その人間の姿を闇に同化させるかのように揺れる。

「しかも、『朱の鍵』弥史郎と『黒の鍵』グラシアスじゃあないか。鍵の一族が何の話をしてたんだい?」

「フン、貴様に語るほどのことではないさ、『黒ずんだ翼』。単にこの女が中のエサごときに感情移入していると話していただけだ」

「やれやれ、本当に単純ねぇ。朱雀の一族はこんな単純馬鹿が多いのかしら?人の言ったことをまるで聞いてないんだからね」

「ふふふ、二人とも仲がいいようでよいことだね」

「じゃあ、あんたも仲間に入ってみる?ヴェストラディス」

「冗談。君たちのような真似事すら、僕は全力で否定するよ。ましてこうして会話するのも、我らが主の達しでなければ反吐を吐いていたところだ」

「………そろそろ無駄話はやめにするとしようか。主の話だと、『宵の暗星』がうまくやったようだ」

「彼は私たち『四死』の中で、一番まともだからね」

「その分我らが主への依存も忠誠もすごいけどね。自分のために生きられないなんて、ドブみたいなやつだね」

「お主ら、何をやっているのだ?」

3人の強力な存在感に、もう一つ、存在感が加わった。

それは、この場所すべてを覆う闇の、唯一同じ場所に立てる人間のもの。

「あらら………これは『闇の影』どの」

「……あなたがこんなところに来るとはな」

「中の娘に用があったのだが………まあいい」

新たに現れた人間は、グラシアスに言う。

「明日、そこにいる小娘を『鍵穴』に設置する。手はずを整えておけ」

言われたグラシアスは恭しく礼をして、

「わかりました。仰せのままに」

その男に返答した。その言葉には、一片の迷いも感じ取れない。

「ではお前たちも配置につけるよう準備しておけ。アスネルコスによれば若干余計なものも紛れ込むようだ。主と月の小僧の対面を邪魔させぬよう全員でかかる」

「やけに慎重だな」

「主の御達しだ」

「それはまた。まぁ、だったら拒む理由はないけどね」

ヴェストラディスが面白げな声を上げる。だが、その言葉の裏にはもちろん、主でなければ従う理由がないという意図を隠していた。

それをやはり感じ取っているほかの三人。それは同時に、その三人も同じ考えを持つことを示している。

「では、また明日」

弥史郎が歩き去る。

「それでは僕も。さっさとこの口を洗浄して今日の会話をすべて忘れたいからね」

ヴェストラディスもまた、黒いマントをたなびかせ、去っていく。

「では、小娘のことは任せた」

闇と向き合える男の足跡も遠ざかる。

それらすべて、今や自分の同胞である禁言のメンバーがいなくなって。

グラシアスは、憂いを帯びた表情を浮かべた。

視線が向く先は、夏葉の個室。

先ほど流していた涙を思い返し、短い記憶を振り返り、

そうして、グラシアスの唇から赤い血がにじみ出た。




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